依存の構造

北海道に行ったときも伊勢に行ったときも本来の自分に戻っている感覚がとても強いんだけど、東京に戻ってくると面倒な症状が出てくる。まず眠い。10時間眠っても眠い。肩が重い。まじで呪いか何かかなと疑ってしまう。自分の中で答えが見つからないことを探るのは難しい。

誰にも依存されたくないし誰にも依存したくない。そこについては常に潔くいたい。依存関係については敏感すぎるくらいなんだけど、そのあたりのアンテナがものすごい反応してる。

心当たりはありすぎる。東京って自尊心が傷つけられちゃってる人が多い。単に人口が多いから多いだけなのかもしれないけど。

精神依存のない相手として真っ先に思いつくのが中学時代の友人Mだ。連絡もらえなくなってしまった状況なのは寂しいところだけど完全に依存がない。彼は純粋で正直なだけでなく、心優しくて責任感がある。いまはお寺でマンガ教室をやっているらしい。

国家試験に向かって頑張ってるAもそうだ。彼女は出会った当時は依存があったけれど、自分の心の状態を説明することに正直であるという勇気を出した。とても強い人だ。僕はその強さと誠実さにマジで向き合っているし、彼女はそうして依存から脱却した。当然ながら関係性はより高度になった。

他に誰かいるかな。

僕は依存なき友人関係を構築するのが下手なのかもしれない。きっちりと線引きを提示しないから。自分で線が引ける人ってほんと少ない。

精神依存の話をすると、誰かに対して好意を持つことに依存は関係しない。依存があるのは、自分が得する条件を相手に見出しているときだ。意識的にそれをやるのがビジネス。ビジネスの場合はお互い納得の上でそれをやるし、対価の支払いがあるからイーブンになる。ドライだけど依存関係はない。個人となるとこれは話が違って、利己のために存続する関係性ほど醜いものはない。それが意識できているのならば意図的に利用しているってこと。無意識にやっているのならば依存です。

問題はその無意識の依存をどうやって認識するか。ここで自尊心が重要な役割をもつ。自分がひとりで立つということを大切にしていれば、己の行動の違和感から依存を見つけることができる。それができないのならば自分が恐怖と向き合う覚悟ができておらず、逃げてるだけ。逃げたいならどうぞって思うけど、結局死ぬまで自分自身からは逃げられないのだから、大切な人生の時間を無駄にしていくだけ。僕はそういうことに巻き込まれたくないし、人がそうやって腐敗していくプロセスを見ているのは苦痛だ。

「恨み」は依存状態を示すひとつの症状だ。恨む相手に意識がフォーカスしており、自分で解決することにフォーカスが向いてない。ピントが甘い。たとえば他人に期待しない何かをされたとき、相手の行動を恨んだところで他人を変えることは100%不可能なのだ。同じことを起こさないためには己の行動を変える以外にないし、行動を変えるためには他者との関係性の認識を成長させる必要がある。認識の視野が狭いと見えないものが多く、恨むだけでなく自分の課題にも向き合えない。この状態は「自分自身への依存」である。

「恨み」と「怒り」の感情分離がきちんとできていない人は依存体質である。

また、「甘え」と「平和ボケ」を混同している人も依存体質である。

人は人に依存できない状況まで逃避や回避が進んでくると、モノや状況に依存するようになる。

世の中には「依存物質」なるものが数多く指定されているが、これってその対象となるモノ自体に依存するような毒性があるわけではなく、人間が勝手に病み付きになっているだけです。だからこそ人は様々なモノに依存する。

ドラッグ、酒、タバコ、ギャンブル、買い物、貯金、セックス、ゲーム、仕事、運動、etc.

結局すべてのことに対して依存できるわけで、依存してない状態とは「執着のない状態」だから、それを躊躇なく捨てることができるかどうかだ。

きっぱりと書いておくけど、「依存せざるを得ない状態」があるのではなく「依存する理由は己が生み出している」です。

たとえば会社でストレス感じてて文句ばっかり言ってる人がたくさんいるけど、そんなに嫌なら辞めたらいい。誰もそこに縛り付ける人はいない。辞められないのは会社に依存してるからです。それをどのような言い方で正当化してもそれは依存の言い訳。カネが理由でやめられないならば、依存対象は会社だけでなくカネにも依存しているということになるだけのこと。

ちょっと撫でただけでどん底まで落ち込んじゃったり全力で逆恨みしちゃったりするような、弱すぎて話にならない人がめちゃめちゃ多いんだけど、この日本ほんとどうかしてるよって思う。平和ボケのかたまり、みたいな。

むかしDisneyのWALL-Eって映画みたけど、そこに出てくる太って自分で歩くこともできなくなってしまった未来人たちを思い出す。

人生で依存しない方法は、自分のゼロのラインを究極まで下げることだ。
「できなくて当然、できたらラッキー」の観点でいれば何も失うことがないから、新たなチャレンジに対してリスクを感じることはない。

これをさらに推し進めていくと、「生きてるだけでラッキー」になるってことだ。

失うことを恐れる対象が多ければ多いほど、求めてもいないような中途半端でどうしようもない結果しかやってこない。凡庸であることは堕落の象徴であるから、そこにたいへん多くの人が転がり落ちている。それで自分だけ幸せになろうっていう利己的なやつらなんだから、もう落ちたら這い上がれないでしょう、そういう人たちは。

現代において、転がり落ちた先にあるのは死ではなく、究極の堕落と恥辱にまみれた人生。そしてそれを辱めと思わないために、多くは思考停止というこれまた究極の逃げに入ってしまう。なぜ逃げるかといえば現状を素直に受け入れられない、不要なプライドがあるからだ。ただそれだけ。

そんなところに向かおうとする人と人生は共に歩めないから、これからも超えてはならない線を超えた人は、きっちり押し返します。