満たされない孤独感=エッジを走ってる証拠

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自分がまだ解決していないことをテーマに書くのは久しぶり。

孤独感が満たされたことがない。

お題:こんなにも楽しい時間を得ておきながら、僕はなぜ孤独を感じているのか。

楽しいということはキーワードだ。

僕がワクワクしていることが、現実にみえる形になってくることは、とても楽しいことだ。

実際いま、いろんなものが形になりはじめている。

しかし問題はここからだ。まだクリアできていないことがある。

まず入り口の共感者を集めるところからはじまるが、それは品川でもうまくいっていたし、福島でもうまくいっていた。荒川でもうまくいきそうだ。

問題のひとつはおそらく、「何に共感するか」のターゲットにもある。

わたしは自分がやっているすべてのことを、誰かに説明しきれたことがない。

どんなゴールを目指して行動しているのかを、理解してもらえたことがない。

だからいつもたどり着く結論が「理解してもらえないというのは、己のワガママではないのか?」からの、「理解してもらうことへの努力は、どうやらズレている」である。しかし独りでは達成不可能な課題を成功させるには、場を作るしかない。なぜ場をつくるのかというと

  • おおよそ理解してもらうためには、じっくりと理解を深めてもらうための時間と、それをするための場所が必要だから
  • 同様に他者に理解してもらえない苦しみを味わっている人がいるはずだから
  • 自分だけのために何か行動することは嫌いだけど、同じ苦しみをもつ人がいるのならやれる

理解に必要なことって、頭の良さとか性格が一致するとかじゃないです。

理解に必要なことは、好奇心です。

興味をもつということです。

興味があれば、対象を理解したいと思うのです。

そしてその興味が本物であれば、理解するためにどんなことでもやれる。

もっともっと理解したくなる。

これって、学びの本質でもあり、人間関係の本質でもあり、遊びの本質でもあり、職人の本質でもあります。

そして僕自身が孤独である原因とも、深く関係があるのです。

そして世の中の差別や偏見や争いの原因とも、深く関係があるのです。

興味をもつということは、それ自体が、引き寄せるパワーであり、愛そのものだということです。


勘違いしないでいただきたいのは、僕をかまってくれと言っているわけではないということです。

僕がいま、最高にいかしてて、命をこれに捧げてもいいと100%思えるほどワクワクしちゃっていること。それはおそらく、理解してもらえたら、多くの人が後頭部を棒で殴られたようなショックを受けて、ワクワクすること請け合いなのです。ただそれは、短時間で説明できることでもないし、その面白さを理解してもらうために必要な知識(前提事項の理解)が、山積みです。

僕は諦めていない。その理解をすることで、僕と同じものを見てワクワクして、共にそれを実現していく人たちが現れることを。たとえ僕が死んでも、それを続けてくれて、達成してくれる人たちが現れることを。

僕を含め人間というものは、知らないことに興味は持てません。だから知ってもらえないことに対して文句を言ったり腐ったりするのは、自分の問題です。

知ってもらうための努力。

これを究極に突き詰めていくことこそが、ライフワークなのかもしれません。


僕が理解されていないと感じることは、「僕のアイデアや、僕がワクワクしているチャレンジ自体を識ってもらいたいのに、他人は僕のことばかり見る」という言葉である程度説明可能だ。

純粋に、仲間がほしいだけ。だって社会に壮大なインパクトを与えるこの活動には、必ず共感者がたくさん現れるに違いないから。共感者が少ないのであれば、それは僕のインフルエンサーとしての努力や能力が足りていないから。

さまざまな課題を抱え込みながら走ってる。

たとえば継続力。僕は自分のやりたいこうしたことを継続させるための基盤作りにも四苦八苦してる。活動を支える基盤が弱い。経済力が伴っていない。

ただカネを集めるだけならいくらだって簡単にできる。しかし僕は、僕のライフワークを誰かにコントロールされてしまうリスクだけは冒せない。夢を忘れない企業が存在すると信じていた頃には、さまざまな企業でそれに失敗したし、品川のinfo.caffeでも失敗した。失敗することは問題ではない。やり直せばいいし、より答えに近づくことができる。今回のチャレンジでどのように今までの失敗を繰り返さずにうまくやるか、そこが大事だ。ところがそんなお題に、答えなどない。すくなくとも自分にとって未踏である未知の世界において、何をしたら失敗するかの経験は蓄積できていても、何をしたら「失敗しないか」の答えには永遠にたどり着かない。

前回の失敗の代償は、とうとう命の危険にまで及んだ。心臓が止まりかけてしまった。この代償は、僕が恐怖心を知るのに十分な効果を発した。僕はとうとう「死の恐怖」に立ち向かわない限り前に進めないところまで来てしまった。

しかし死の恐怖は同時に、僕にさまざまなものをもたらした。ひとつは、僕がワクワクしてやまないライフワークは、死の恐怖をも克服するほどの価値であるということ。命をかけるに値することであるということが僕の中で証明されたのだ。もうひとつは、死というものの理解が深まったこと。

死を理解することは同時に、生を理解するということだ。表裏一体だから。

そして死生観についてこれ以上はここに書いても無駄だ。重い感じにするのは、目的達成を阻害する。僕は悲壮感あふれる挑戦なんてしたくないし、誰もそんなことしたくないだろう。ワクワクが止まらないほどの期待感、夢、それに向かうチャレンジの楽しさ。そっちが本筋だ。

継続性の話に戻そう。

SDGsが掲げる17の目標は、人が「考えなくなる」原因にもなっている。どこかの偉い人が「こうすれば継続する」と勝手に決めた目標。国連サミット。

17の目標のが掲げられたその裏にある「本質」を見極めてこそ、本筋にたどり着ける。世界の継続性は、こんなわかりやすい17程度の目標では達成し得ないことを見抜ける人が必要だ。

SDGsのひとつひとつの目標がどうして笑っちゃうものであるのかについて、僕の考えを知りたいと思いますか?

これが、僕が伝えたい「問題」なんです。

「僕が考えていることが素晴らしいよ」って主張しているのではなくて、僕が主張したい内容そのものを見ていただきたい。その内容をみて個々に判断願いたい。

そして批判するだけですか? などと言われる筋合いもない。主張だけを見て、対策してるかどうか、チャレンジしてるかどうか、目標があるのか、ビジョンがあるのか、計画があるのか、実行しているのか。そこまで好奇心を向けていただけるのか。

「知る」ということは、エゴと隣合わせだ。エゴが知識の邪魔をする。

マウントの取り合いをやめろと世界に発信するのは馬鹿だ。ジョン・レノンもガンジーもキング牧師も偉大な人だし、尊敬に値する立派な功績を残してきた。しかしやり方の問題だ。ある程度の効果では済まされない時代だ。だからこそジョブズやゲイツやバフェットは時代に合わせたやり方を編み出してきた。しかしそれでも失敗した。なぜなら彼らのuncounscious bias、それはやり方や個々の人間たちをattractするところに答えなどなく、世界観そのものにメスを入れなければその先の答えは得られないからだ。

理屈だけじゃクリアできない。行動だけでもクリアできない。アートや文化との融合も必要だ。基盤もつくっていく必要がある。心無い出資は得られない。バイアスのかかる支援も得られない。

やりたくないことをやらず、やりたいことだけでいく。これは、とても高いハードルだが、クリアする喜びは最高のはずなのだ。

コメント

  1. たに より:

    なんかわかるような…
    こんなに共感できる記事ばかりのブログ初めてかもです。