富士登山について

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9/10に富士登山するのです。ご来光を拝んで参ります。

心臓は大丈夫かとか、新型コロナのこの時期に行って大丈夫かとか、少なからぬ皆様にご心配をいただいております。でも心配は御無用です。

時を重ね、カッコよく言えば「わたしの使命」にのみ従順に、すべての行動を決断しております。

そんな使命どこからやってくるんだ? と思いますよね。ほんと、そう思います。でも、やってくるものはやってくるのです。わたしたちのご先祖や霊感の強い方々はこれを「天の声」「御神託」と呼ぶのでしょうか。現代人はこれを「衝動」「心の声」と呼ぶのでしょうか。果たしてこの使命とやらは、わたしの心の中にある何かがわたしの意識へ伝えてくる無意識からのメッセージでしょうか。それとも魂あるいはDNAに刻まれた、生まれる前から備わっている何かからのメッセージでしょうか。はたまた、宇宙や別次元のどこかから受けとるメッセージなのでしょうか。あるいは、わたしたちの住むこの世界は仮想現実であり、本当の現実世界またはフラクタルのように無限に重なり合った宇宙の上位世界における何かが伝えてくるものなのでしょうか。

本当のところはわかりません。しかしそのような何かに従うということは、従属でも従僕でもありません。わたしの全身全霊がそれを行うことに何の疑問も抱きません。

そのような心の声、あるいは使命を受け取ったとき、それに従って行動することで後悔したことは一度もありません。従わずに後悔しなかったこともありません。わたしにはそれが何であるかはさほど重要な問題ではないのです。ただ、目に見える物事だけがすべてではないということをわたしは信じています。

そのようにしてわたしは進路を選んだり変更したりしてきました。そのときは理由がわからなくても、わたしは自分のもつ直観に逆らうことはできませんでした。ただの一度たりとも。

オーストラリアもカンボジアもタイもマレーシアもインドもアメリカも台湾も、そのような流れで使命として現れました。使命といま呼んでいるそれは、流れに乗るだけですべてうまくいきます。これは宗教ではありません。ただ経験上そういうものだということを書いているだけです。

恐山も大宰府も神津島も伊勢も出雲もそのようにして導かれました。

こういうときには、必ず自分だけにわかるサインがあります。

そのサインは、重要なものであるほど強く、何度も現れます。

今回わたしは富士に行くタイミングが来たことを理解しました。理由はわかりません。いつものように、行ったらわかる理由があるでしょう。そして行ってからしばらく時間が経つと、さらに理由がわかってきます。この導きで行動したとき、理由がたったひとつであることはありません。さまざまな状況やさまざまな関係性において、ひとつの行動がさまざまな未来に繋がるのです。点と点がつながり線となるわけですが、無数の点が同時に繋がっていくようなイメージです。

富士のあと、寒くなる前には、群馬県の高天原山にも行きます。「御巣鷹山の尾根」。つまり、日航機123便が墜落した現場のある山です。そこで失われた520名の命に祈りを捧げてきます。これも理由はわかりません。わたしの身内や親しい人に、123便の関係者はおりません。

使命を無視していると、とにかく無視できなくなるまでサインが現れます。

すくなくとも、わたしにとっては、そうなのです。皆さんはどうなのか存じ上げませんけれども。

ですので、今回の富士は「富士に呼ばれているから行く」のであって、そうであるからには、しっかりと納得のいく理由がその裏にあるに違いないのです。

事故などで死ぬことがないとは断言しません。なぜならそうなるのであれば、わたしに与えられた運命に従っただけのことだからです。無事に目的を達成するならば、それもまたわたしに与えられた運命です。そしていま現在わたしはこの世で生きている(と思っている)ので、いままでの使命に従ったことで、死ぬことも不幸になることもなかったのです。いつ死というものがわたしにやってくるのかについては考えるだけ無駄です。わたしは2019年5月24日に一度死んでいる身ですし、よくよく考えればそれ以前の人生においても死んでいてもおかしくなかった状況が多数あります。危機にあったことを認識すらしていなかった危機もおそらくあったでしょう。わたしにとってそのような流れは至極真っ当に受け入れられることです。わたしは生きる宇宙を選ばされているということです。それを「生かされている」と表現する方もいます。

わたしは心配事がありません。いまこの瞬間はわたしが本来得られるものではなかったかもしれないという可能性について、死に瀕したときによくよく考えてみたのです。もともと得られなかったはずのものが得られなくて、誰が苦しみましょうか。瞬間瞬間の奇跡に喜びしかありません。

そういうわけですから、富士でわたしが死ぬのであればそれは運命。富士から無事に戻ってくるのであればそれは運命。そして死ぬはずがありません。なぜならそう伝わってきているからです。わたしの終えていない使命を残したまま、この生命が終わりになるはずがないのです。

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