家族の食卓

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キューブカフェ荒川は、公式には13時から20時の営業となっているのだけれど、実際には早くても21時まで、遅いと23時過ぎまでやっている。

僕はこの状況を変えようとは思わない。思い出してみれば、info.caffeの時もそうだった。info.caffeのオープン時刻は公式には12時だったけれど、現在みたいにカッチリしてなかった。というのも、当時はひとりで毎日やっていたので体力がついてこなかったので、オープン時刻が前後することが結構あったからだ。これはinfo.caffeで得た反省点のひとつ。

キューブカフェ荒川は毎週月曜日だけなので、無理なく続けられる。そのうえ、増えている仲間たちがどんどん自主的に動く環境になってきているので、さらに続けやすくなっている。

夜遅くまで帰らない人が多いのは、それだけキューブカフェ荒川に価値を感じている人が増えているということだ。僕もそのひとり。

先週宣言したとおり、今週から「誰かが夕飯をつくって、食べたい人全員で一緒に食べる」が始まった。嬉しい想定外があった。それは、第一回目は僕がカレーを作るつもりだったのだけれど、思いのほかスマホの使い方を尋ねにやってくるカフェの訪問者が多くて、18時くらいになっても準備が始められなかったので、まみさんと堤さんに食材の買い物をお願いしたのだが、なんとカレーまで作ってくれた。

みんなでカレーを食べながら、そうそうこれがやりたかったのだ、と思った。とても簡単なことのはずなのに、なかなか思い通りに実現しなかった。やってみたらやってみたで、みんな簡単に「こういうことなのね、いいね」って理解してくれる。ただシンプルに「ごはんを作ってみんなで食べる」というだけのこと。

info.caffeではひとりで頑張りすぎた。頑張りすぎたから、作る人と食べる人の間に壁ができてしまった。とかいなか食堂ではそれがさらに顕著になった。キッチンに立つメンバーが頑張りすぎたというのが僕の答えなのだが、キッチンで提供するものに対して普段からプライドのあるお仕事をしているプロの方がいらっしゃったので、この緩さを伝えることが困難だった。当時はなにしろ全員初めての試みである中、それぞれが試行錯誤していたのだ。

とかいなか食堂が、今月(2021年9月)いっぱいで終わる。営業は1月から停止状態だったのだが、中西さんがあの場所を手放す決断をしたのだ。なにしろ家賃の高い場所だったので、中の活動だけでどんなに頑張っても継続性確保は難しいところだった。あの場で成功を得るためには、それこそ荒川でいま始まろうとしている「クエスト」をたくさんこなしている必要があった。info.caffeやとかいなか食堂の時代から、呼び名は違えど「クエストボード」はあった。けれどそれを見たりクエストを提示したりする人は自分くらいしかいなかった。現場のメンバーは日々の営業に追われてしまい、とてもそんな余裕がなかった。

週1回のスタートは、無理がない。どんなにハードな仕事をしていても、週1日くらいは休暇をとるべきだ。だから続くのだ。キューブカフェは僕にとって「仕事」ではなく「休暇にやるめちゃめちゃ楽しいこと」だから、毎週月曜日は僕にとって週末の休暇みたいなものだ。毎週のように集まってくれている方々にとっても、おそらくそういうことになっているのだと思う。

「社会活動の起こし方」「アイデアを実現する手段」。実際には、やってみて失敗を重ねてみないと得られない貴重なものがたくさんある。最終的なゴールは同じでも、プロセスが異なるだけで成否が分かれてしまうという、好例だと思う。

僕のゴールはまだまだ先にあるのだけれど、自分ひとりで計画するところから仲間と共に築きあげていくところへのステップアップは、このたび大成功していると言える。

たいせつにしていること。

  • 来る者は拒まず、去る者は追わず
    これを徹底しないと、さまざまな弊害が出ます。心から楽しめてない人が責任感で継続するのが最悪のケースだ。楽しくないなら去るのがベストです。そして、楽しくないことをやっているなら、そんな活動は潰れて当然なのです。これを徹底していても活動が続くのであれば、その活動には価値があるという証拠になります。続けることが目的になったら、組織は終わってしまいます。これは、キューブカフェのような非営利活動に限らず、営利組織にも当てはまる話なのです。「毎週、存続を試される」と同時に「毎週、続ける価値を確認できる」。
  • 平等と公平の違いをわきまえて徹底する
    人はみな、生きる権利を持っています。生きる権利はみな平等です。キューブカフェ荒川の活動に参加する権利はみな平等です。しかし、食べるカレーの量は平等ではありません。たくさん食べたい人はそうすればいいし、少ししか食べたくない人や全く食べたくない人もいます。これをそれぞれの求める量に合わせて提供することは公平です。全員が食べたいだけの十分な量のカレーが無いならば、皆が少しずつ我慢すればいいわけですが、これも平等性ではなく公平性を基準にします。公平性とは「全員が納得できる合意点を探る」に近いです。小学生にとって300gのカレーは食べきれないほどかもしれませんが、お相撲さんにとっては、おやつにもならないかもしれません。
  • 言い出しっぺは偉くない
    たとえばキューブカフェ荒川をはじめたのは僕ですが、僕ひとりの力でできたわけではありません。場を提供してくれた方、きっかけをくれた方、その他さまざまな人の支えや応援や理解があって、スタートすることができました。僕が「キューブカフェは僕のアイデアだ」と主張し続けたらどうなるでしょうか。おそらく部下や信者が増えることはあっても、心から対等に向き合える仲間は増えません。
    アイデアを出した人や、それを実現するためにひとりで努力してきた人は、その行動が称賛に値するかどうかは、本人が決めることではないことに留意しています。「価値」という結果が出るかどうかが重要です。価値とはお金だけではありません。むしろお金は価値という広い定義のなかのほんの一部でしかありません。一緒にカレーを食べる楽しさも価値ですし、なんでも話せる仲間と時間を過ごせるのも価値です。今までできなかったことができるようになるのも価値ですし、知らなかった世界観を得るのも価値。並べだしたらきりがありませんが、とにかく価値というものには多様性があります。何かに対して「価値がある」と思ったら、受益者から提供者になることも可能です。
  • どんどん失敗しよう
    失敗なくして成功はありえません。失敗せずに成功できることは、世の中の誰かがすでに成功するためのベストな道筋を編み出していることです。初めてのことは誰でも失敗するのです。たいせつなのは、失敗したときに同じ失敗をしないようにすることだけです。同じことを繰り返せば同じ失敗につながるので、違うやり方を探せばよいだけです。思いつかないなら仲間に相談すればよいのです。ここでまたたいせつなのは、「続けることの価値」を常に疑い続けることです。失敗を繰り返しながらやり方を変えていく過程で「そもそもこれは、本当に価値あることなのだろうか」ということについて考えるのをやめてしまうと、「続けることが価値」になってしまいます。ゴールを見失わないこと、見失ってしまったら、「やめる選択」もアリなのです。
    あらかた失敗し尽くしてしまうと、嫌でも成功するしかなくなります。
    失敗経験は大事だとよく言われますが、僕なりに表現させてもらうと「失敗なきところに成功なし」です。失敗しない人は、たまたま運が良かっただけか、やってることが模倣で、チャレンジしていないかのどちらかです。
    また、失敗を責めることがどんなに無意味なことなのかもおわかりいただけるかと思います。

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