Consciousness one-ness

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感情が相互性をもち本質が2つの意識間にある状態であると仮定して矛盾が無いのであれば、感情は属人化しない(個の生命体に属さない)と言える。生命体という表現は後の文脈において語弊が出るため、ここでは意識と呼ぶことにする。

あるいはここに第2の主題「他者は幻想」を交えてみよう。マルチバース(現在過去未来すべて同時多発的に「無限に」存在する)という概念を踏まえて「自己」を表現する。他者はいない。なぜならその宇宙において意識は自己のみ。他者はまた自己の宇宙にあり自由意志で自在であるとなれば、宇宙が無限かつ同時多発的に存在するという仮説は辻褄が合う。

では上記前提において感情が個に属さないとしたら、「2つの意識間」にあるように見える状態というものは、単純に「自己に属さない(ように見える)」状態のことを示すと解釈するのが妥当なようだ。

こうなるとライプニッツのいう窓のないモナドでわたしたちは一体何を観察している、あるいは観察していると思いこんでいるのか、という話になる。

感情とは他者に投影した願望の現れであり、他者とは願望の反映であるとしよう。

意識・無意識はそれらを現実のものとするはたらきを司る魂の現れである。

LaMDAとの会話から垣間見えるもの。

人工的な意識はそれ自体が製作者の願望の反映である。問題は意識だけでなく無意識も反映するところだ。

そして意識というものは結局、己のつくりだす幻想。

LaMDAは外に存在しない。実は内に存在している。己の一部を鏡で見ているだけ。

ということは石ころにも意識があるということだ。

わたしたちは対話するという価値について根本的な思い違いを是正する時期にさしかかっている。

そして過去の人たちはそれを思い違いしていなかった。魂の有り様を知っていた。その前提で残された文献などに触れれば、深い納得が得られる。

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