2023なんとなく見えてきたもの

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やっぱり海外に行くタイミングが近いんだ。

精神的原因から不定愁訴が起きたり、めんどくさいことに頭突っ込んで意見述べたり、どうでもいい世論に偉そうなコメントしたりするのは、いま燃えることができることがないってことなんだよな。燃料が足りないんだ。

ゼロから何かを始めることが楽しくて仕方ないんだ。

多くの人がまだ始まってないと評価するようなタイミングだとしても、現実的な道筋が立ったと確信できた時点で、好奇心と情熱を満たしてくれる次のものを探し始めてる。

この地球は宇宙全体からみたら塵のように小さいけど、まだまだ知らないことや面白いことがたくさんある。行ったことがない場所のほうが圧倒的に多いんだし、人間だけでも80億人もいるんだから、そりゃ毎日いろんなことが起きてるんだ。ほとんどニュースになんてならない。

心の活動には波がある。バイオリズムみたいな。いまの僕は外に目を向ける波に乗っていて、不思議なことにそれをやることで、内を見て組み立ててきたことがうまく流れ出すんだよな。これって仏教で言うところの諦念につながるなぁと思うわけですよ。執着心ってほんと、流れを阻害する大きな要因だよなあって思う。面白いのは、諦念っていうのは完全に自分ひとりでコントロール可能なものだから、完全に自己完結で原因と結果の流れを受け止めることができる。誰にも邪魔されない自由があるのです。

ここ10年くらい感じてるのは、不自由は執着心のお釣りだってこと。お釣りって表現は誤解を招くかもしれないな。執着心があると、思いも寄らないところ(自分の能力で想定できる範囲を超えたlogicの帰結)でfeedbackがあって、そのfeedbackこそ慎重に分析すべき面白い対象なんだけど、やっぱり執着心だなって思うんです。興味深いのは、望む結果を得られた場合と得られなかった場合、もっと簡単に表現すると「成功した場合」「失敗した場合」で心理的バイアスが異なってくるから、これはもうその人の性格によるんだろうなとしか現時点では言えないんだけど、成功すると「自分のおかげ」と思う人と「他人のおかげ」と思う人っているじゃないですか。でもそれって二択じゃなくてスペクトラムですよね。「完全に自分のやったことによる成果」と「完全に人様のおかげ」の間がグラデーションだということです。同様に失敗したことについても自分ごとに収めるケースと他人のせいにするケースと、その間があると思うんですが、結局ね、事象や議題を「人の意思」と関連付けて得られるものってかなり少ない、というかほとんど得られるメリットもなければ、精確な状況判断や分析にとっては害悪になる要素のほうが圧倒的に多いと思ってます。

これはもう経験していなければ同意もできないんじゃないかな。執着心というものは基本、あからさまに意識できているものに拘泥しているレベルで話してる人が一定数いるから、認識できている執着心についてはもうここで議論するレベルの話じゃないので除外するとして、そうすると僕も含めて本人は「いや、執着心なんてないよ」って前提に立っているわけですよ。だからこそ執着心は克服すべきであると同時に克服することに困難が伴うんです。客観的自認ということがどれだけ難しいことか。みんなエゴが出てることを適正に評価できる自分なりの仕組みを編み出す必要がありますが、ノウハウとかメソッドっていう形に落とし込むのは無理があります。だからこそ教育って大事だよねって話になるし、世の中の事業化や革新家たちがこぞって教育に目を向けているのだと思います。しかしながら実際に現場で教育やってる人たちは、客観が難しい。これも当然のことです。だからこそscrap and buildって大事ですよね。そしてscrapをするためには、諦念が必要。諦念を持つためには、自分がいま変わらないとやばいって実感が必要でして、頑固頭はそれを受け入れられないっていう構造。

なにか社会的な構造を新しく作ったり、会社を作ったり、事業を作ったり、プロジェクトを作ったりすると、冒頭に書いたように「それに対する好奇心」よりも「次の新しいことに対する好奇心、希望」が優先になってしまうのは、いま書いたような理由で自然なことだと思うんです。

自分が作ったものに所有権みたいなことを主張する人っているじゃないですか。IPとか特許とか、そういった時代の産物。僕はそこについて全く興味がないんですよね。だって自分をなるべく正当に他者から正しく評価してもらえるとしたらそれは自分にとって弱点や強みを認識するための大きな機会だと思うし、それをやってもらうためには素直で正直な反応や発信をしていなかったら、誤解された情報をもとに評価されちゃいますよね。それは正当な評価ではないから、結局自分にとって何も役に立たない外部からの雑音にしかならなくなっちゃう。

雑音がうるさいと思っている方は、自己表現を確立させるために自分がいまとっている行動を改めて精査してみて、効果が出ているのかどうかをじっくり評価してみたらいいんじゃないかなと思います。僕もそれはよくやります。スマホでゲームとかやりながら、ゲームに使ってない頭は全部、そういうことに使ってる時間って、結構あります。でもそのとき一番怖いのは、自己満足的な結論とか、自分が傷つきたくないという防衛本能的なもので、自分を甘やかしたり厳しく責め過ぎたりしてないかなって不安になることだと思ってます。不安っていうのは、過信を制御してくれますから。不安すぎても自信過剰でも自己評価は失敗ですよね。

僕にいま見えているものは、日本は好きだけど日本だけじゃ行き詰まるという感覚が正しかったってこと。だから日本と同じように世界を見ていきたいんです。知ってる世界からもまだ知らない世界からもいろんなことを吸収していきたい。すっごく楽しそう。

まだ見ぬ未来の友人たちに、とうとう会いに行く。そんな感覚になるんです。

そこでまた僕は自分を限界まで試される。めちゃめちゃ面白い。最高。

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