漸く消えかけていた右足の疼痛が昨日からまた強くなった。慢性的に続く痛みは果たして取り組むべき仕事に取り組めない原因なのか、はたまた言い訳なのか。その答えは今のところ顕在化していないようだ。
兎も角、こんなときは無理はしないほうがいいだろうということで出来ることだけをする。そして図らずも設定されてしまった雄大な余暇を受け入れ、読書でもするかと手にとったのは、一冊の本ではなくスマホ。Kindleの中で10年も放置してしまった「銃・病原菌・鉄」。まだ開いてもいないこの本を読もうかと思ったところで、次のようなフレーズが頭に浮かんできた:
Picking up a book that I hadn't even started reading yet, I realized that appropriate mental stimulation is one of the important factors in understanding an individual's inner landscape.
(拙訳:まだ読み始めてもいないとある著書を手に取り、適切な精神的刺激は個の内的風景を理解するための重要な要素のひとつであることを認識した)
なるほど、そういうことね。この新しくて懐かしいような概念の発掘にはちょっと心躍る。
でも面倒だな、いま雲の中から掴み取ったこの感覚を万人に理解しうる言葉に落とし込むのが。このブログはそんな不可能チックなことをやろうという、誰と戦っているのかわからないことをやり続ける場なんだけど、その恩恵は実に多大なのだ。単に説明能力が向上するとかじゃなくて、自分と世界のギャップを認識できる機会だ。誰も僕の面倒臭い文章なんて読みたくないだろうしあえて自己主張してまで査読してもらいたいとは思わなくなって久しいけれども、ではなぜやめないのかというと自分が読み返すことによって得られる価値に目を向けたら、やっぱこれやっててよかったじゃん、と心の底から思えるからだ。結局自分が読み返すときのことを思って書いているというわけだ。
先ずは "Appropriate (mental) stimulation" と "Inner landscape of the individual" について触れておこう。
認識論的な話になってしまうが、僕は知識の全体性・社会性に関してかなり尖った受け止め方をしていることは自覚してる。その上で「適切な(精神的)刺激」は、世界観とか状況の多次元的連鎖に強く影響しているその流れが説明可能な概念として掴めた、ということ。当たり前っていったら当たり前のことなんだけど、やはり知的体験があってこそ予測は証明に近づき、感動と達成感、そして次なる仮説を「見つける」嬉しさに直結する。
「銃・病原菌・鉄」にしろホモサピエンス全史にしろ、世界中の多くの知識人たちの精神を揺り動かすレベルのベストセラーは、カオス的に分布している意見・思想・現状認識・世界観を裏表(白黒)に分界してしまう副作用を常に孕んでいる。(なんで読み始めてもいないのにそんな断言ができるのかって? 僕は意地悪だからその疑問にはいまここでは答えない)
たとえば僕の内的風景。それはこの宇宙をどう解釈するかという仮説の塊でもあり、解釈は実体験を認識に落とし込む際の前処理と表現することもできるから、内的風景が(multiverse)宇宙を形作っているという説明も成り立つ。vice versa。
思えば現代社会はこれが片道通行であるという仮説のもとに成り立っている。vice versa(逆もまた真なり)がうまく適用されていないのだ。外観と内観のバランスが極度に外観に寄っていると言い換えることもできる。それは唯物論的であり、もはや古典だ。
たとえばbipolar disorderの研究における最前線で「原因は遺伝的であるが必ずしも生物学的遺伝とは限らない」という発見が科学的根拠を必要としているシーンや、脳内物質(セロトニンとかノルアドレナリンとか)が精神作用に及ぼす原因物質であるのか結果物質であるのか、とか。(身近な例えがいまは思いつかないので、思いつたら加筆する)
有名な話をネタにした思考実験とその個人的考察について述べておこう。この考察については様々な意見が出るだろうが、僕は断定するのではなく仮説を楽しんでいるだけです。
地動説と天動説。
地球は丸いのか平らなのか。
視点(perspective)を変えると、物事は全然違ったように見えてくる。ここで大事なのは、自由な視点を持つということ、つまりカメラの位置を自由にするということが、視座を支える重要な要素であり、同時に解釈の自由度を上げて個の知性や状況説明能力に直結する、ちょっとしたチャレンジだってこと。
現代教育を受けた人で、天動説を信じる人はほぼいない。地球は太陽のまわりを回っているのが当たり前だというわけだ。でも僕は地動説にも天動説にも真理はないと思う。地動説 vs 天動説の議論において、常に「空間は固定されている」という思い込み(狭い視野によるperspectiveのエラー)が起きているということを、これから説明しよう。
まず天動説を信じている人は、地球こそが固定されていて、まわりの星々は地球のまわりを回っていると信じた。故に水星逆行や月蝕などは神秘的なものとして畏敬されてきた。天動説は、地球という足元に広がる揺るぎない大地を視座においた視点であり、当時の人類の文明レベルからすれば当然の帰結だ。
次に地動説を信じている人は、太陽こそが固定されていて、まわりの惑星たちは太陽のまわりを回っていると信じた。これは水星逆行や月蝕をもうまく説明するため、地動説が正しいとされる流れやその裏付けとなる研究は、太陽が中心になって発展した。
しかし実際にはどうだろうか。
わたしたちは地球上の特定の地点を座標で示すことができる(と思い込んでいる)。実際には地球は自転しており、公転もしており、わたしたちが示した座標というものは地球という視座に対する相対的座標でしかないのにもかかわらず、多くの人はそれを絶対的座標だと思いこむ。
地球は太陽の周りを約1年でひと回りする。だから1年経てばもとの場所に戻ってくると思い込んでいる人がいるが、太陽は銀河系(わたしたちの天の川銀河)のまわりを回っているので二度と同じ場所には戻らないということを忘れている人も多い。これは視座を太陽に置くのか、それとも銀河の中心に置くのかという話で、やはり相対的なものだ。
では宇宙空間のとある1点を示して、その場所が絶対的座標を持つと断言できるのか? 残念ながらそれはできない。その座標が移動していない、つまりより大きな視座において固定された位置を維持しているという証明が不可能だからだ。数学的・物理的にみても固定された座標という概念は不自然だ。
では、太陽系よりも大きな視座において、地動説・天動説の答えはどこにあるのか?というと、
こういうことになるよね。太陽は天の川銀河の辺縁にあって、この画像みたいに大きな軌道を突き進んでる。まわりにある惑星たちは、太陽を「固定して直線軌道をとっている」表現にすれば、螺旋のような軌道(つまり、波)で回っているわけだ。
そんな天の川銀河ですら、宇宙空間を秒速600kmものスピードで移動している。ということは、銀河団の中心からみたら、太陽はこんな真っ直ぐ進んでない。
相対的といったのは、固定された座標がないという前提に立てば、地動説が正しいとか天動説が正しいとかいう議論そのものがナンセンスだということを説明したかったのだ。
つまりこういうことだ。
左は太陽を固定したときに現れる太陽系惑星の軌道(地動説)で、右は地球を固定したときに現れる太陽や惑星の軌道(天動説)だ。水星逆行が起きる理由もよくわかるし、太陽だけでなくすべての惑星同士が重力のバランスのとれた軌道で回っていることも想像に難くない。
これはどちらも正しいのだ。
ここでようやく "Appropriate stimulation" の話に戻るのだが、先に結論を書いてしまうと、適切な認識というものは、われわれ意識体(あえて人類とは書かない)が認識している世界の大きさによってどうとでも変わる、ということだ。つまり自由というものはそういうことである。論理的な正当性というものは時代が変われば陳腐化してしまう。なぜならそれは論理であるから、演繹と帰納というfaultyな説明しかできない構造だからである。いっぽう感覚的なものは1次関数的な数値化ができないため一般教養をベースに理解を促すことには無理があるし、多次元的な説明に関して言えば微小なパラメータの影響がとてつもなく大きくなる理由はなんですか? ってことです(観察効果のことを指摘しています)。
視座の自由度は、カリキュラム学習によっては得られない。学問とは他者が発見したことを吸収することではなく、自然から学ぶべきで、すでに存在する理論は信じるでも疑うでもなく、ただそこにある参考程度にしかならないということを主張したい。「信じるでも疑うでもなく」っていう感覚がわからない人には、いまの僕にはうまく説明することができる自信はありません。ただそれって、qubit的だよねってことで、量子がもっと身近になってくれば、道具と宇宙の摂理との関係がもっと人類社会にとって明らかになってくるのだろうなと思ってる。僕が生きている間にそうなるかっていうと、わからないけれど。
だからこそ「適切な精神的刺激」と書いたのです。英語だとappropriate mental stimulation。僕による造語です。
ここまで書いて、この文章が伝わる相手は僕だけだなって思いました。
もし伝わる人がいたら、ぜひ夜通しで議論してみたい。僕はそういうことに常に渇いてる。
なぜ精神的刺激なのかというと、正解は存在しないから。ただのtemporary referenceの集合なんですよ、この世界は。本当に世界を作っているのは我々の認識です。わたしたちは認識という回路を通さずにこの現実世界という名の宇宙を体感できないし、それが物理的なものであるのか物理的だと思い込んでいる認識から現れるのか、についてどちらが正しいと断言することができる人はまだいないのだから。ということで、参照はしても情報に依存してはならないです。刺激という言葉を選択したのは、これは教養でも教義でも正論でも終着駅でもなく、永遠にアップデートされていくものだからです。好奇心があるから刺激を受けるんですよ。宇宙が刺激をくれているという捉え方も素敵ですけどね、宇宙に疑問や興味を持つのは自分自信の内的活動を源泉にしているわけだし、その内的活動って本当に外と内をきれいに分断してハイこの内側〜なんて断定ができる根拠はないですよね、ってことなんです。宇宙の特定の場所に絶対座標を与えることができないように。
空間とか時間とかいう概念は、人類が便宜上作ってきたものです。それによって説明可能である(納得できる)とか、応用科学ができるってことを人類は重要視してきたわけで、そういった意味では「どうしてかわからないけど、素手で殴るよりこの動物の骨で殴るほうが強いぞ」って気付く我々の遠い先祖と変わりないんですよね。
だからね、タイトルに「銃・病原菌・鉄」って出てきた時点で、中身を読まなくてもだいたいどういうことが書いてあるのか想像できますね。そんなの当然で、議論や研究だけでは認識論の発展なんて社会の中では起き得ないんですよ。足りないものがあるの、わかりますか? あえてここに答えは書きません。書いたらまたそこに至る説明しようとしちゃうから、面倒だ。そのうち書くかもしれない。
Appropriate "mental" stimulationと書いたけど、"metaphysical" のほうが近いかなあ。
個の内的風景について僕の解釈の説明はまたこんど。
ここまで書いて、感の鋭い人はもうわかったと思うけど、結局「船を出航させろ」ってことになるんです。
理屈より大事なこと。
ここにVan Halenの Jump を載せときます。
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