いま起こしていることを説明していく試み(2)

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視野を広げてみよう

新型コロナウイルス、戦争、経済、政治、コミュニティの喪失など、いま時代は末期的なところにフォーカスされている感じがします。

個人的にこれはフォーカスの問題だとしか捉えていませんけれどね、やっぱり苦しみが表層化して無視できなくなっている方は多くいらっしゃると感じます。

さまざまな方のお話を聞く機会がありますが、最近顕著に増えつつあるのは、「やりがいの行き場を見失って迷っている」です。

先日の投稿に書いたような、従業員←→経営者(あるいはフリーランス)とか。

ひとつの組織に専従していると、これが二項対立の問題に見えてしまうんですよね。でも常識は日々書き換わっていて、いまはこれが二項対立しない時代になってきています。

今回は物事の視野(範疇)について僕が思っていることが言語化できてきたので、それについて書いてみようと思います。

4つの「自分」に分けてみる

最近、僕自身が物事を決断するときに4つの異なる大きさの集合で物事を見ていることを自覚しました。

  1. 個人的な人生観(自分のみ)
  2. 隣人とのかかわりあい(自分が直接関与)
  3. 社会とのかかわりあい(自分が間接関与)
  4. 全体とのかかわりあい(この世の摂理、願望、使命)

主観で描くと次のようになります。

視点を変えるとこうなります。

これでピンと来る方もいらっしゃると思いますが、最初の図は円錐を俯瞰して見た絵で、2つ目の図は円錐を側面から見た絵です。

この図の意図や解釈について講釈を垂れるつもりはありません。読んでいる方が個人個人で感じるところにお任せしようと思います。

自己実現

自己実現の定義は人によって様々です。前章に書いた「個人」「隣人」「社会」「全体」のどこにフォーカスして、どこにゴール設定をして個々の行動規範をつくるのかは、この世界では自由とされているべきですし、我が国でもそれは自由です。

ただし順序を間違えると大変なことになるのは多くの人生経験豊かな皆様には賛同していただけると思います。

僕がこの世の普遍的なルールとして見出したのは次の通りです。

  • 目標設定は大きなものから決めていく
  • 行動は小さなものから実現していく

大きなもの、先程の図で示す「全体」や「社会」における自己の価値観が決まっていると、より小さい「隣人」「自分」の行動において取れる選択がおおよそ絞り込まれてきます。

しかし例えば理想の「自分」を実現するためにとった行動が「隣人」を傷つけるとなると、その行動は多くの場合不幸を生み、それは「自分」に返ってきます。上図のピラミッド構造を見れば一目瞭然で、自分を支えているのは隣人であり、隣人を支えているのは社会であり、社会を支えているのはこの世を支える物理法則・摂理と呼ばれるものだからです。

「走れメロス」でなぜ主人公が最後まで走りきれたのかというと、それが自己実現のためにではなく、隣人のためであったからです。人はより大きなことのためならば己を擲つことが可能である証左だと僕は思うのです。

「自分」「隣人」「社会」「全体」は相互的に必要という関係性で閉じており、どれが優先とか重要とかいうことは無いと僕は思います。

視野の広さが強さそのもの

人間は弱い生き物です。僕も弱いです。しかし弱いながらも、燦然と輝くエネルギーを放出して、大きなことを成し遂げる潜在力も持っています。エントロピーの法則に逆らうためには相応のエネルギーが必要で、何かに作用するように力(action)をかければ、当然ながら同等の反作用(reaction)が発生します。

  • 個人として自分自身を助ける力(自立)がなければ、隣人を助けることはできない
  • 個人と隣人を助ける力がなければ、社会を助けることはできない
  • 社会を助ける力がなければ、全体を助けることはできない

同時に、

  • 隣人と調和しない個人の行動は、自立とは呼べない
  • 社会と調和しない隣人との協定は、局所的かつ独善的である
  • 全体と調和しない部分社会における合意やルールは、破滅的である

表現が的確かどうかはわかりませんが、このような関係性もあると僕は認識しています。

不慮の事態が起きたとき

たとえば、うまくいっていると思っていたことが突然覆されるような不条理な出来事が、人生にはつきものです。

  • 交通事故に遭遇した
  • 病気になった
  • 職を失った
  • 愛する人と別れた・死別した
  • 入学したい学校や会社に入れなかった
  • 天災に遭遇した

このようなことが起きたとき、わたしたちには余裕がなくなります。余裕がなくなると視野が狭窄して、「自分」という範疇でしか物事が見えなくなってきます。最初の図で言えば、中心にいる自分から見える半径が狭まるということになります。

ところが見えていようがいまいが、世の中というものは絶対の法則である全体の摂理で動いていますし、社会もそれに従って動いています。

たとえば「職を失った」ことが、「自分」という範囲においては不幸を感じさせるイベントだったとしても、それが実は「隣人」「社会」「全体」にとっては最適な選択であったり、実現のために必要な過程だったりするということです。失職を機に転職をしたり起業したりして、それが結果的にすべて調和する結果に結びつく可能性があります。

愛する人と死別したことについても、捉え方を変えることができます。天災も病気も怪我もそうです。

「苦しみは、視野を広げるチャンス」と言えるかもしれません。うまくいっていると思っている間は、何も変えようとしませんからね。

悪などない

「企業に就職する」「会社を起こす」「社会運動をする」「誰かと付き合う」「旅に出る」・・・

どんな行動にも善悪もなければ有利不利もない、と僕は思っています。

すべての行動は、目的達成のための行動にすぎないと思っているからです。

「会社」は、「何かを実現するために必要だと思うから作る」、自分のための道具のひとつです。

AIも同じです。自分のための道具のひとつです。

技術やノウハウといったものは、それを使いこなす自分にとって、状況によって使えたり使えなかったりする道具です。その技術ひとつひとつに大した意味はないと思っています。

木を切断したいのに道具箱にノコギリが無かったら、どうしましょうか?

なぜ切断したいのかによっていくらでも代替策はあるでしょう。

ホームセンターに行ってノコギリを買いますか? 買うお金がなかったらアウトでしょうか?

道具箱にノミはありませんか? ドリルはありませんか?

最適選択

他人がつくった会社に参画する手段は大きく分けて2つあります。

  • 経営に関わる
  • 従業する

このどちらが「良い・悪い」はありません。全く違う動機・経験になりますから、その会社に何のために入るのか、それはなぜかを明確にしておくことが大事だと思います。

僕自身、従業員としてさまざまな組織で働いてきました。そこでしか出会えないような素晴らしい方々と出会えたことも、就職しなければありえなかったメリットですし、仕事の内容も、その会社に入ったからこそ経験させてもらえるものばかりでした。おまけに給料までいただけるのです。

会社で働くということは、無数にある手段のひとつにしか過ぎません。しかしその選択によるメリットはきちんとあるのです。どのようなメリットがあるのかについて考えたときに、「自分」「隣人」「社会」「全体」の視野を常に持っていると、自分を見失うリスクが低減されます。

自分が持つ武器を数える

生まれたばかりの人間は、泣くことくらいしかできません。わたしたちは、学習・経験を繰り返し、やれることを増やしていく生き物です。

では現在の自分は、どんな武器を持っているでしょうか。

自己評価はとても難しいですよね。

それでもなお、自分を信じるしかない状況は人生で幾度も発生しますから、驕るでもなく卑下するでもなく、自己を正当に評価できるようになることは、人生の道筋を切り開く上でたいへん重要な努力のひとつだと僕は思います。

意味のないことはひとつもない

いま目の前で起きていることは、自分がどう受け止めるかにかかわらず、意味のあることです。その意味がリアルタイムで自覚できていることなんてほとんど無いと思います。この世の摂理を図式的に理解できたからといって、それだけで途方も無い広さのこの世界のリアルを把握できると思ったら大間違いだと思います。わたしたちの預かり知らぬところに意味がある。人間はその壮大なる摂理を瞬時に把握できるような頭脳は持っていないと思います。しかし感性というものは、その壮大な摂理を肌で感じ取ることができる、大脳皮質内で閉じている理論とはまったく別の世界の話だと思っています。

いま起こそうとしていること

いま世の中では、「自分」のために「隣人」、あるいは「隣人」のために「社会」など、一方通行的なロジックだけで成り立たせている事業や活動が横行していると僕は感じながら生きています。

それが良いとか悪いとかそんな判断は僕にはなくて、ただ「それは続かない」「近道に見えて遠回り」あるいはもっと悲惨なことに「同じところをグルグル回ってるだけ」にしか見えないということです。

フォーカスの範囲を変えて自分がやろうとしていることや、やっていることを客観視することは有益です。

自分がよくても社会はどうでもいいこととか、社会にはよくても自分が我慢し続けるとか、そういった「不調和」あるいは「アンバランス」な活動を持続させ続けることと、真の持続性をもつエコシステムを構築するのとは、似ているように見えるかもしれませんが、まったく異なることに、僕には見えます。

こうした矛盾を選択せずに、どこまで物事の実現が可能であるかということを、この世界を使って実験する。その結果得られた学びをもとに、次のステップに進む。こうして進んでいく先を見通すためには、KPIを数値やバイナリで持つだけでは足りません。無限のように枝分かれしていく未来を全体で俯瞰して選択していく、量子コンピュータ的な能力を我々人類は持っています。それを駆使していくためには、己の限界に向き合うときもたびたびあります。しかしそれを突き進めていくことがどれだけ充実感や幸福感につながるか。やってみなければ感じられないそれを僕は自分自身に提案し続けています。提案しても無視されるなら、実際にやって証明しよう。そうしているうちに僕の中にある「自分」から「全体」までのすべてが繋がって、「誰のためにやっているかはどうでもよかった」ということを認識させられています。

僕が好きなことはたくさんありますが、なかでも特にやめられないことがあります。それは、

「課題を解決していくこと」です。

  • 他人が解決できた問題を再解決しても面白くない
  • 誰にも解決できなかった問題を解決したい
  • 問題解決の旅は、この世の仕組みや意味を深堀りして学んでいく旅そのものだ

今回はこれくらいにしておきます。

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