意思決定と手段決定を混同している会話がなかなか多いので、ひとつ書いておこうと思う。
「どうすべきか」という言葉は、ケースによって受動的なニュアンスを含んでいる。
人は本来「どうしたいか」で動く生き物である。
「どうしたいか」が決断できないとき、安易に「どうすべきか」を考えてしまう、この脳内ロジックを誤りだと認識して訂正することができるかどうかが重要なポイントだということについて説明したい。
ふたつの異なる「どうすべきか」
- 「どうしたいか」の答えがある状態の「どうすべきか」
- 「どうしたいか」の答えがない状態での「どうすべきか」
2つの異なる状態において、「どうすべきか」という言葉こそ同じなれど、その質は全く異なるものだ。
これはどのような状況においても通用することであることを実感していただくために、簡単な例を挙げてみよう。
[1] 手段の問い「どうすべきか」
お腹が空いたとき、「何が食べたいか?」
スパゲッティが食べたいと決まっているあなたは「どうするべきか」は、「どうすればスパゲッティが食べられるか」という具体的な問いとなる。
答えは当然たくさんある。「材料をスーパーで買ってきて自分で作る」「レストランに食べに行く」「コンビニで買ってくる」「食べずに我慢する」など。
人に尋ねるならば「スパゲッティが食べたいんだけど、どこかいい店知らない?」とか「簡単に作れて美味しいレシピ知らない?」と、相手にとっても答えやすい質問になる。
これが、「スパゲッティを食べるためにはどうしたらいいか?」の問いだ。
これを簡潔に言えば「手段の問い」である。
[2] 意思の問い「どうすべきか」
ところが、お腹は空いているけど何が食べたいかハッキリしてない場合、「どうするべきか?」の問いは「わたしが食べたいものを決めるためにはどうしたらいいか?」や「わたしは何かを食べるべきか否か?」といった問いになる。
これらは、「意思の問い」である。「わたしは空腹を満たしたいのか?」「わたしは今食べたいのかそれとも何時間か後か?」「わたしは何を食べたいのか?」「わたしはどこで食べたいのか?」
以前本ブログにも書いたが、上記の問いはwantに関わることだ。What do I want?である。欲する(want)ということは意思であり、他人には決めることができない。あなたが何を欲しているのかは、あなたにしか分からないからだ。
「手段の問い」は、How can I get what I want?、である。これは欲しいものを手に入れるための手段にこだわりがなければ他人にでもアドバイスすることができる。ただし本当に欲しいものが相手にどれだけ伝わっているかが大事なのだ。スパゲッティが食べたいけどいい店ある?と質問して、あなたは外食したいのに、テイクアウトのお店を紹介される可能性がある。そのため、質問はより具体的になる必要がある。
あなたはどうしたいのか?
旅行に行こうとしたあなたは、出発当日になって、何かの手違いで航空券のチケットが予約できていないことに気がついた。
そこで「どうすべきか?」の問い。
- 「手段の問い」の場合、旅行先に行きたいという意思がある。どうにかしてたどりつくための手段をどうするべきか?という問いだ。
- 「意思の問い」は、「わたしは旅行に行くべきか?」の問いだ。他人に聞いても「そんなことは知らん。あんたはどうしたいんだ?」と問われる。
さて、この旅行がひとり旅ならばまだ決断もしやすいであろう。それでも決断できず、行きたいのか行きたくないのかオロオロする人もいるが。
組織における意思のありか
これが自分以外の意思による旅行だと状況に複雑さが加わる。
例えば旅行先で取引先との大切な会合がある場合だ。独断できる範囲が、個人の場合と異なる。
組織の場合はまず、ホウレンソウ(報告・連絡・相談)が大切であるから、まず関係者に連絡を取る。
意思決定を委ねられていないケース
典型的な日本企業の場合は、そこで上長など責任者の判断が入るかもしれない。
そして、意思の問いは組織に委ねられるのだ。
もし組織が「行く」と決断した場合あなたは上長から「どうにかして行け」と指示される。
その指示が自分で解決できない場合、あなたはまた組織に問い合わせる。
それが今度は「手段の問い」、「どうやって目的地に行く手段を得るか」になる。
意思決定を委ねられているケース
組織によっては、その旅行に行くべきか行かぬべきかをあなたに委ねる。行く・行かないの決断によって起きるであろうビジネス上のメリット・デメリットも含めて、判断を委ねられ、結果の責任も委任されている場合だ。
組織に属していないフリーランスや個人事業主、会社経営者の立場であれば必然的にこちらになる。
意思決定を委ねられていない組織に慣れてしまっていると、意思決定する能力が著しく低下するケースが多い。
意思決定→行動の責任を誰がとるか
「どうすべきか」を自分で決めることこそが、自分の人生を自分でコントロールできる状況だ。
それを組織や他人に委ねることで安心する人が多いが、それは目先にはないリスクを負うことを意味する。
意思決定には行動が伴わなければ、ただの口先だけである。
そして行動に責任をとるということは、その意思の根源となる行動規範、それを支える価値観が問われる。責任をとれない人間は、責任ある仕事において成功しようと失敗しようと結果を問わず、信頼を得ない。
真摯に選択するということは、自分の意思をごまかさないことで、行動が伴わないのであれば自分の意思に反したことをやろうとしているということに気づくべきだ。
組織に順応した人間の弱点
本来ヒトは、自分で意思決定し、自分で行動も決める生き物だ。
組織に順応しすぎてしまうと、自分で意思決定しないことに慣れてしまう。不健全な組織(腐敗した組織)でパワーゲームや自分の身の置き場を少しでも心配するようなことになれば必ずそれは起きる。
飼いならされてしまった人間には、人生における重要な局面で意思決定はできない。
自分が毎日の細かい行動から大きな行動まで、決断して行動しているのか、それとも何かに流されて順応してしまっているのか、定期的に自分自身に問うてみるといい。
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