抜苦与楽

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袖振り合うも多生の縁

人とのはすべて単なる偶然ではなく、深い因縁によって起こるもの。人とのはすべて単なる偶然ではなく、深い因縁によって起こるもの。

抜苦与楽

この世で縁のある人の苦しみを抜き、楽を与える。

抜苦与楽は、自己犠牲心だけでは成されない。神仏より受けた慈恵は計り知れないもので、人の姿をしたわたしにはそれをすべて等価に返礼する方法を思いつくこともできない。それほどに偉大なものだ。わたしは思う。我が身に受けた慈恵による幸福を縁者に分け与えたいという心を持つのは人としてごく自然な成り行きであると。

神仏より授かった我が身の幸福は、この身体の物理的な存在の有無を超越したはるか先にある。わたしが死を恐れないのは、この身体を与えていただいた理由を知っているからだ。すべて使い果たすことが究極の恩返しと思っている。わたしは修練を重ね、即断即決を目指して目の前に起きることに対してまっすぐに向き合い、一切の迷いなく自然に動けるようになることこそが、わたしが現世に生かせていただいていることに対するせめてもの供養であると思う。いまだに迷うことがまだまだある。しかし己の迷いに氣付いたときに反省し、魂の修練を怠らないことがこのよにまだ生を継続させていただいている理由でもあるのだ。神仏の慈悲は計り知れない。

わたしにとって抜苦与楽は決して地獄の修行ではなく、幸福の共有であり、生きる価値である。そこには幸福感しかない。この「幸福の共有」を「幸せのお裾分け」としか自称できないのは、わたしの至らなさ故である。わたしはそれを知り、さらに高みを目指すことで、相手とともに幸福を昇華させる。

もしあなたが刹那的な感情を少しでも抱えているのであれば、それは純粋さを失っている印であるから、自省するとよい。刹那は罪や怨みのもととなる。刹那は自己愛のあらわれである。深く反省し、潔白に生きる誓いを立てることをお奨めする。

わたしは誰がこれを読むか知ってこれを書いている。いまこれを読む君が、この文章を真摯に己の事として受け止めることを願う。

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