Is this real?

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昔はなんかこう、もっと論理的というか、現実的な世界で物事を考えていたような感じなんだけど、最近は抽象的な世界にいるような感覚が強くて、感性や直観で生きてて、あんまり頭を使っていないというか、使ってるんだけど使い方が違うような感じ。うまく説明できないな。

決めつけから脱却する段階が深くなっているせいもあると思う。物事に対して断定的な物言いをすると後で訂正することになる。というのもやはり物事には無限の多面性があってそれは球体のようである。まっすぐ自分に向いてくる反射は全体のうちほんの1点であり、そのビームの太さはどうなんだろうと疑問をもつと、結局は無限とかフラクタルの世界に入り込んでしまうのだ。

それで不思議なことに、毎日が回っている。それが一番の不思議であると同時に、今まで理屈っぽく考えていたことや即席な自律システム(たとえば明日の糧を得るために具体的に必要な金額を計算して、稼ぐべき金額を算出するとかいった類のもの)はそもそも不要だったのではないかとさえ思えてくる。

いやしかし、これは経験を積んだからできるだけのことかもしれない。やはり過程というものは必須で、それを経たからこそ今は直感的に動けているのかな。

世の中には若くしてその世界に入っている人もいるのだろうから、どっちが正解なのかは永遠の謎のままにしておくほかはない。今のところは。いつかまた答えが降ってくるかもしれない。

精神的健全性を維持したまま思考・夢想の世界の奥深いところまで入り込むためには健全な肉体も必須だが、なにより環境と己のバランスが大事だ。バランスを崩して思考世界に入り込むと病んでしまう。かつての自分は今と比べてかなり許容が少なかったため、容易にバランスを崩しかけた。実際に崩してしまったらもう戻ってくることはできない。ギリギリの崖っぷちまで行って崖の下の景色を覗き見ることがやめられないのだろう。今もまたそうしているのだが、以前ほどの恐怖心がない。

今でもたまに未来への不安に怯むことがある。しかしその直後には心持ちが変化して、どうにかなるという得体の知れない安心感に包まれる。実際それでなんとかなってきた。それで今後もなんとかなる保証があるかと問われれば無いのだが(問われるという第三者的視点でこのような疑問を書くことは精神的な健全性を保つ上でたいへん重要である)、どうにかならなそうになれば実際に自分は追い詰められて動くのだ。追い詰められるということもまた幻想(経験則に基づいた未来への不正確かつ不条理な予測)に過ぎないのだ。やれることはやるし、やれないことはやらない。明らかに僕は好奇心を最優先にしており、やりたくないことをやれないようになっている。

心持ちというものが生活や未来において重要であることは強く感じる。健康もその影響を免れ得ない。精神的健全性の土台になるのはやはり余裕であり環境であり肉体であり魂である。そこは科学的あるいは論理的に追究しようとしても無駄であって、どちらかというとアートの危険な世界に浸かっている方々の不条理から紐解いていくほうが現実的に役立つ。

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