感動

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日頃から考えていたこと、漠然と感じていたことを今日はうまく言葉にできる気がして、書き始めてます。かなり雑な内容になると思いますが、また機会を改めてこのトピックには触れたいと思いますので、今回は思いつくままに書いてみます。

生きていること、生きる意味について長い間考えてきました。
病気を患ってから人づきあいもめっきりと減り、人からヒントを得る機会も減りましたが、その分、自分自身と向き合ってこういうことを考える時間は増えました。

20代の頃に、ある結論を自分なりに導いていました。
くさい言葉に感じるかもしれませんが、この世に必要なものは「愛」であるということです。
All you need is loveです。

この考えに至ってから、さまざまなことを実践してきました。
人に愛してもらうのではなく、他者を愛すること。
プライベートでも、ビジネスでも通用することです。
当時、これを表現する機会に偶然にも恵まれ、この思想は友人をはじめ多くの人の賛同を得て、羽ばたきました。
愛をテーマにしたプロモーションビデオが当時いた会社のキックオフで上映され、数多くの反響を得ることができました。

しかし「無償の愛」と「偽善」との狭間で、僕は苦しんでいました。
愛を与えるということは、結局自己満足に過ぎないのではないかという思いがありました。
愛を与えている(もしくは与えているつもりになっている)ことで、自分の負のエネルギーをロンダリングして、浄化されたような気持ちになっている。つまり、結局は自己愛を原動力とした他者への愛なのではないか?
そう自分に問うてきました。
結局、この考え方自体に矛盾があるという結論に至ったのです。
たぶん人間にとって愛は理想の形のひとつにはなるけれども、原動力にはならない。
少なくとも、自分にとって原点は愛ではなく、そのさらに深い闇の底に何かがあるはずだという気持ちになっていました。

同時に、うつ病という辛い試練が僕を襲いました。
以前よりも切実に、生きることの意味について考えていかざるを得ない状況になりました。

そんなとき、天から啓示を受けたかのように、ひとりでたどり着いた結論が、
「感動」
の二文字でした。

人は感動するために生きている。

言葉にするとものすごく単純ですが、これはかなり真理に近いのではないかと感じました。
これを読んでいる皆さんの中には、
「何をいまさら、そんなわかりきったことを」
なんて思っている方もいらっしゃるでしょうね。
ところが自分の場合、いちいち自分の経験に裏付けられないと自分のものとして「ことば」を消化できないタイプですから、ここにたどり着くまでに長い年月を必要としてきたのだと思います。

「感動」をキーワードに歴史を覗いてみれば、長い長い間、「感動」は人類にとっての最重要のテーマであったことがわかります。人類が文化というものを形成するようになってから、あらゆる文化的活動は感動を生みだすためのものでした。

逆に問いたいくらいです。感動の関わらないアクティビティが存在するのかどうか。

人は感動することによって生きている証を得ている。
見知らぬ場所へ旅行して、雄大な自然や新しい文化に触れて感動する。
政治革命を起こし、より理想に近い治世を行い感動する。
美しいものに触れる感動を生み出し、保存するために美術が存在し、
家族をもつことで、新たなドラマが生み出され、そこに感動がある。

絵画、彫刻、本、映画、漫画、ゲームなどはすべて、感動を疑似体験するための道具。
人が作り出した感動を味わうためのツール。

なぜ人は働くのか。
これについて考えるとき、人の心を曇らせる最大の邪魔者があります。
それは、生活への不安です。
つまり、生きていくために必要なお金を得ることが最優先となり、何のために働くのかという問いに対する最大の答えが、「食べていくため」になってしまうということです。
しかし、人は何のために食べるのかという問いには、それでは答えを得られません。
食べなければ死んでしまうから、という答えは、答えになっているでしょうか。なっていません。
なぜなら、その答えはなぜ生きなければならないのかについて答えていないからです。

単純に「死ぬのが怖いから」生きているというだけでは、説得力がなさすぎるのです。
以前の日記に書きましたが、僕は死ぬのは怖くないんです。
そりゃ痛いのは嫌だけど、死そのものに対する恐怖感はありません。

人はなぜ、生きようとするのか。
なぜ、現世に執着するのか。

それは、感動したいからに他ならない。
これが僕の出した、今の時点での最良の結論なのです。

まだ見ぬものを経験して、新たな感動をしたい。
そしてなにより、人と感動を分かち合ったときの充足感!
人に感動を与えるということは、自分もその感動を共有しているということになります。

感動を少しでもたくさん、人と共有したい。
「与えたい」ではありません。
感動というものは、常に共有されるものですから。考えてみればわかると思います。
この事実が、僕の「愛」に対する矛盾を解消してくれたのです。

逆に、無感動こそが、この世界における最大の敵だということにも気付かされました。

人は神様じゃないですから、「完璧」なんて無理です。
でも、極論かもしれませんが、たとえば10ある仕事のうち、ひとつでも感動させることができたら、残りの9に関しては感動できなくてもいいと思うんです。

人は、本気か本気でないかを敏感に感じることができます。
本気じゃないところに感動なんて絶対にありません。
だからこそ、日々を誠実に、感動のために生きることに意味があると思うのです。

すべてがひとつの「感動」という文字に収束しています。

映画や小説などは、昔からある「人が作り出した感動の疑似体験」を共有する方法のひとつだと思いますが、これだけ長い人類の歴史の中で、積み重ねられてきた感動のためのテクニックというものはさすがに凄いものがあります。

最近とくに漫画やゲームなどのサブカルチャーで感じるのは、感動させる側のプロが、感動についてうまく表現できていないものが多いことです。
フォーカスしているポイントが、感動させることよりも、商業的に成功することを重視してしまう時代だから、ある程度は仕方のないことなのかもしれません。
しかし商業的に成功しながら、きちんと感動を与える仕事ができるはずです。
このような両立した素晴らしい作品というものは、そう簡単には出てこないのでしょう。
いつの時代にだって、駄作と良作があったはずです。
たとえばクラシック音楽がモダンだった時代には、ひどいクラシック作品もたくさんあったはずですが、その中で素晴らしい作品だけが後世に継がれていくため、いまではクラシックといえばどの作品も高度で素晴らしいものだらけなのでしょう。
だから昔の人がすごかったとかいう考えは僕にはありません。
それでも、いまの映画界、マンガ界、文壇などで感じる閉塞感は、やはり「感動」に重きを置かれていないせいじゃないかと思っています。

本気ではない作品では人は感動できないものだと思っていますが、そんな投げやりな作品に対して「感動した」という評価をする人が増えているのは残念です。
これはその評価した人の問題ではなく、感動する機会を奪っている現代社会の抱える問題点なのだと思います。
胸をしめつけられるような、ドキドキしてじっとしていられなくなるような感動を得るチャンスが減っているのでしょう。

話が逸れましたが、このような現代の事情も踏まえると、今後「感動」はより重要なファクターになってくるのだと思います。

毎日を生きていること。
家族との感動。
他人との感動。

感動を通じて、人に希望を与えられる人になりたい。
それは、今気づいたというだけのことで、いままでもそのように思って生きてきたのでした。

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