草の根

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先日ニュースで、日本のどこかの地域で行われている老人ホームと保育園(あるいは幼稚園)との協力の話が紹介されていた。

園児、老人の双方にとっていいことがたくさんあるらしい。まったく素晴らしいアイディアだと思うし、こういうことはどんどんやっていただきたいと思う。

しかしこの話を見ていて、なぜこのような地域活動を活発に盛りあげようとする人たちの努力が、全体に広まっていかないのだろうかと思った。

まず一つ目に、東京のような都会と、それ以外の地域には「地域活動」に対する考え方に埋められないギャップがあるのに、それらを同じように扱おうとする国のシステム。それから、トップダウンではなくボトムアップで活動が発展するためのシステムの不在。

そのため、このような地域活動が盛り上がり大きくなってきたときに、本来の目的から大きく外れて誰にも舵取りできなくなってしまうのがこの日本の悪いところである。組織化や効率化、全体の和を尊重するという日本人の美点ともされる部分が、マイナスに働く瞬間だ。
組織化、効率化、和の尊重に注力するあまり、本来の活動が死んでしまった例がたくさんある。
だから日本ではおよそ経済活動と政治活動以外の活動というものが根付かない。
活動というものにはいろんな形があるべきものなのに、ひとつの枠でしかモノが語れないことに問題がある。これは何も「いまの大人がダメ」と主張しているのではなく、我々大人がどうしてこのような方向に進まざるを得なかったかについていま冷静に分析し、罵り合わず、原因を突き止め、変えて行く必要性を強く感じる、ということを主張したい。

そうでないと、すべての活動はものすごく小さな単位までにしか発展しなかったり、逆に上から押し付けられた、汎用的すぎて無駄だらけのやり方を受け入れるしかない。そう「なってしまう」のではなくて、既に「なっている」。

今回のニュースでそれを強く感じた理由は、僕が米国でホームステイしていた頃に同じような活動を目にしたからだ。
簡単に書くと地域の老人と子どもたちが交流するというプランで、冒頭で紹介した活動によく似ていた。これを思いついたのは地元の幼稚園の先生。はじめはその先生が勤務する幼稚園だけが行っていた活動だったが、クチコミで評判が広まり、カウンティ中に広まり、さらに近隣のカウンティまで広まり、最終的には公共の活動として州がサポートすることが決定した。そしてその中心には常に、はじめにこの活動をはじめた先生がいた。

まったく同じことを日本でやったらどうなるかを頭でシミュレートしてみるのだけど、うまくいくような気が全くしない。

何かがうまくいかなくなってくると、精神論に走り出す人が出てくる。
「もっと頑張ればなんとかなる」なんていう、明らかに精神論ど真ん中のものから、
日本人に足りないのは論理的思考ではない。論理的思考の大切さが浸透していないのだ。

日本人は「もっともっと頑張って」どこへ向かおうとしているのか。
いまだってもう、かなり頑張っていると思う。
(精神論を含め)様々な索を持って相手の裏をかき勝利を得ようとしていた太平洋戦争の時代と何も変わっていないのではないかという思いが頭をよぎる。

たいていの日本人は、他の国の人たちより頑張ってるよ。もう精神論でなんとかするのはやめよう。
ギリギリなんだよ。それよりも、もっとうまくやるために頭を使わないと。

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