サークルのようなもの

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昨日は友人4人とあそんできた。

とても楽しかった。

爆盛りで有名な千葉県我孫子市の「リバーサイド」というお店に行って、みんなで炭水化物を大量に平らげてきた。

古い友人が「昔、林が『もう3日もメシにありつけてなくて、ようやくコメを手に入れて、5合炊いて一気に食べた』って話をしてた」と聞いて、そーいえばそんな時もあったなあと懐かしく思った。

僕の20代は滅茶滅茶すぎて、当時の記憶が断片的で順序をよく覚えてない。

無意識が思い出す事を拒んでいるのかもしれない。

仕事を無くしたり、親との確執があって実家にも近寄れなかったり、住むところに困ったり、当時付き合ってた彼女と色々あったり、友人と連絡も取れなかったり。

断片的な記憶の中には楽しい思い出と苦しい思い出が混じり合ってる。

あの苦しさはもう味わいたくなかったからこそ、僕は死ぬほど真面目に自分の存在意義を考えざるを得なかった。生きる理由をずっと真剣勝負で探し続けてた。世の中には僕よりもずっとずっと厳しい境遇に置かれた人たちがたくさんいるのがわかってたからこそ、自らが選んだものを誰のせいにもできなかった。

思えば僕の人生のほとんどは、そうやって葛藤し続けてきていた。

そんな生き方はとてもカッコ悪く思えたし、もっとスマートに自分を活かしてどんどん希望を叶えて行く人たちをたくさん見て、羨望の気持ちが常にあった。

僕は何よりも、自分に対して誠実に生きられていないことが一番苦しかった。

嘘つきだった。正直に自分を認められない、プライドだけ高くていけ好かない野郎だった。

過去の人生においていくつかの区切りがあって、その区切りを境に周辺環境も付き合う人たちもガラッと変わる事を何度も経験してる。

まるで違う人の人生のように接点のない幾つもの生活が1人の人間の過去に存在するようだった。

昨日集まってくれた4人は、そんな過去の人生の中でそれぞれ違うタイミングで出会ったかけがえのない友人たちだ。

ひとりは中学時代の同級生の友人。

ひとりは20代の頃、僕が床屋で働いてた頃の友人。

ひとりは僕が既婚者でIT企業で働いてた頃の友人。

ひとりは直近の会社、通信機器ベンダーの友人。

僕は人生において毎日をこれほどまで平和で幸せを感じて生きられるようになるとは想像もできなかった。

いま、毎日が幸せだ。

素敵な人たちに囲まれて生きてきた事、今も素敵な人たちに囲まれてる事。

こんなシンプルな事実を受け止められなかったのは、僕の自己否定感が強すぎたからなのかもしれない。

楽しい時間を楽しく過ごすという、ごくごく自然で当たり前のことができなくなってた時期が長かったからこそ、いまここで好きなように生きている事をとても幸せに感じている。

この友人たちは皆、異なる特徴と得意分野と自由さを持ち合わせている。

みんなで何かやったら面白いことになるんじゃないかなと。

オトナのサークルのようなもの。

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