じゆうちょう

絵を描き始めたことで何かのスイッチが入ったのだろうか、散歩しながら聴く音楽のジャンルが変わり、久しぶりに耳にするアーティストの歌詞とメロディがまったくもって今の自分の心境をうまく言葉にしていることに感動した。

ああ、やっぱり今感じているような苦しみは人間にとって普遍的なものだ。苦しみの渦中にいるとき、人は視野が狭くなる傾向があり、僕も当然例外ではない。

人と人の関係性において、相手を信頼して心を開いたら、その分だけ傷つくこともある。そんなこと、わかっている。けれど、やめられない。人とわかりあえなかったとき、なぜ相手を理解しようとすることをやめてしまうのか。痛いのはよくわかる。でも相手の幸せを願って結ばれた関係性がその原点なのだとしたら、どんなにわかりあえなくても、理解しようとすることをやめてしまったら何も残らない。

これは、自分が成長する機会だと思う。心を開いて、共感に喜びを得て、さらに傷つけ合うようなことがあって、違う道を歩んだとしても。いろんなこと全部ひっくるめて、相手が自分と離れたいというのならば、それも相手の自由だから侵害しないことがぼくの生き様だ。遠くにいても、あなたのことを想う。時という無慈悲に刻まれていくものに追われたこともある。だって、もしあなたとわかりあう瞬間を明日に先送りしたとして、明日、わたしたちの両方が生きている保証はないから。だからこそ、自由にさせてあげるということには、ある程度の覚悟というか、諦念が必要だ。

自分を自由にさせてあげることも然り。ぼくのからだ。血管も心臓もこんなになってしまうまで、無理させてしまってごめんね。

なにか普遍的なものを伝えたい、残したいとき、絵を描いたり曲を作ったりしたくなるんだな。自らの体験を否定も肯定もせず、ただ人としての営みに流れる美しいこと、切ないこと、嬉しいこと、悲しいこと、……。絵を描きながら、自分にも見えていない自分自身の現在の感情が絵に反映されているのがよくわかる。どこか物憂げで、答えが出ていないけれど、いまを誠実にクリアしていくことでしか今日という時間をこなしていけない感じ。

ピアノがもし手元にあったら、一日中だって弾いていられるだろうと思った。昔よくそんなことをやっていたっけ。好きな曲を弾いたりしながら感性を研ぎ澄ましていくと、いつのまにか、曲とも言えないような、手が自然に繰り出す不思議な旋律を奏で始める。音の波に自分の感性を乗せながら流れていく時間はとっても貴重だったんだな、と今では思う。なにも生み出さない非生産的な時間だからといって、ピアノの鍵盤に手を置く時間を捨ててしまったのは、自分らしくない行動だったんだと、いまではわかる。それが、絵を描けなくなった理由でもあった。

ピアノはないけどギターがある。手にとって弾いてみようかと思ったけど、弦が錆びついている。弦を張り替える経済力すらないのがいまの自分。自転車も先週パンクしてしまって、修理にいくらくらいかかるのか近所の自転車屋さんに聞いてきたけど、今はまだ無理。

退院して2週間目から、仕事をしてる。ひとのつながり。今月から仕事を少し増やしてもらった。体力に問題がなければ、来月さらに増やしてもらうことになってる。

仕事といってもどこかに出勤することもなく、自宅でパソコンに向かってひとりでやる作業。インターネットの向こう側には人がいるけど、作業はすべて、ひとりの世界。

こうして独りで誰にも邪魔されず、通勤の煩わしさもなくお金をいただける仕事ができるのは、今の僕にはとてもありがたいことだ。仕事内容も、細かいことはなんにも指示されず、僕の能力を信頼して多くのことを任せてもらえている。

にゃーちゃんを膝にのせて仕事をしながら、そういえば数年前まではこんな働き方ができるようになったらいいなあと望んでいたことを思い出す。当時は毎朝会社に行くときに、ひとり自宅に置いていく猫に後ろ髪をひかれながら、好きな人や猫と過ごす時間を犠牲にしながらいったい自分は何をしているんだろうと思うことが少なからずあった。当時のそんな記憶を思うと、好きな時間に好きなように働かせてもらえている今の自分は、よっぽど前に進んでいる。

必要だったから話せるようになってた英語も大いに役立っている。同僚が近くにいなくても様々な処理ができることも今までの経験があるからだ。パソコンが壊れたり調子が悪くなったりしても、自分で直せる。仕事を効率化するための仕組みだって、誰の手を借りなくても作っていける。IT技術の面で、新しいものに遭遇しても、理解できない大きな壁は一切ない。そして、こんな仕事を依頼してもらえる人間関係が、いつのまにか自分のまわりにあったこと。

生かされてる。それって、こういうことなんだね。

まずは自分のペースを取り戻すために、いろんなことが、然るべき場所に戻る必要がある。僕の心の中で模様替えが進行中。それは、実際に自分の家の中を片付けていくこととか、絵を描くこととか、音を楽しむこととか、散歩することとか、話したい人と話すこととか、ひとりでコーヒーを飲む時間だとか、いろんなことと、すべて繋がっていることを感じる。

秋澤さんの自宅のパソコンの問題を、見もしないで電話だけで解決する。これって多分、できない人もたくさんいるんだな。当たり前なのに、当たり前に思えてなかった。

村山さんから何度も優しい連絡もらってる。体力が戻ったらぜひ顔を見たいから、おいしいものを食べにいきましょ、でもあくまで、自分のペースでね。日本語が苦手な小学生の子に、林さんなら英語でなにか手助けしてあげられないかしら。

いろんなものを自分の心の部屋の中に配置する前に、それが本当はどこに置きたいものなのかを、じっくり時間をかけながら感じていく。

借りたお金を返したら、水彩絵の具を買うんだ。自転車も直して、エリーゼを取り戻すんだ。
それから、ピアノがほしい。うちは古いから音が筒抜けなので、電子ピアノがいいな。中古でいいから。

大好きな夏。あの日差しがもうすぐやってくる。今年の夏はまだ、エリーゼ取り返せてないかもしれないな。来年もし生きてたら、オープンにして海に行こう。

銚子の海に行って、ニャースの墓参りもしよう。

どこまでも、約束できない人生のなかで、
どこまでも、この心持ちだけは忘れないでいよう。

Hiro Hayashi

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