満ち足りてるということは、新たな不足への道標でもある。
まだだ。まだ足りない。
もっと成長したい。自分に足りない目の前にあるものをクリアしていくごとに、新たな課題が立ち向かう。永遠に続くように思えるこの流れが一体いつおわるのだろうと思っていた頃もあったが、おそらくこれは永遠に続くのだ。
苦しい時にはいつも、ゴールにたどり着いて楽になりたいという思う。自分の弱さと常に向き合い、葛藤し、今できることと、できないことを仕分け、できることからやっていく。
楽に逃げることも選択肢としてはあるのだ。しかしそれを選ばない自分。
もし本当に楽になってしまったら、きっと挑戦しなかったことを悔いながら、残された時間をただ消費してゆくのだ。
ダメだ。そんなことには耐えられない。
いま僕が向き合っている挑戦は、誰に課せられたものでもない。自分で選んだことだ。偉く厳しい道に感じることも多いけれど、思いがけないところでいつも、やっててよかったと感じる瞬間がある。
それを成果と呼ぶのならば、その成果は年を追うごとにだんだんと個人的になってゆく。自画自賛になっていないか、最新の注意を払いながら進まざるを得ない。瞬間瞬間のあらゆる決断に、それが求められる。まかり間違ってエゴに陥れば、それまで費やしてきた苦労が無駄になってしまうから。
個人的な成果だけれど、どこかで必ずその結果で世の中に革新が起きるはずと信じていること。
こんなことは誰に共有もできない夢なのだ。
精神的に追い込まれないギリギリの線を攻める。たまに失敗して落ち込むこともある。ギリギリのところでの自己制御はとても難しい。でも誰もがやっているレベルのギリギリ度合いでは、誰もが得られる成果しか得られない。
安定と不安定の狭間で、綱渡りをするように世の中をヒラヒラと舞って行く。しかしその羽ばたきのひとつひとつには、あらゆる個人的犠牲が試される。
命を削る価値は、命を削って生きている人としか分かち合えない。
僕がこんな生き方を選択しているのは、今までに出会ったあらゆる人たちの生き方から学んだからだ。教えようとする態度からではなく、力の限り精一杯生きる命の姿を見て、僕はみにくいアヒルの子のように自分の生き様を恥じ、落ち込んでいても仕方がないからその美しさに少しでも近づこうと努力する。
生きる真剣さから、多くを学んできた。
両親、親戚、かつての配偶者、恋人、教師、街ゆく人たち、映画、小説、漫画、同僚、牧師、僧侶、すれ違いの人、動物たち、木々、山、海、川、空、太陽、月、星々。
本当に大切なことは、自分にしかわからない。
そしてそれは、決して言葉にはなり得ない。
漱石「月が綺麗ですね」
四迷「死んでもいいわ」
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