Modern times

常に失望させられ続けてきた。僕は自分が自分に期待するほどの成果を上げられずに苦しんできた過去を持つ人間だ。他人がどれだけできるかを問題にしたことはない。それをされることが本当に傷つけられることだということをよく知っているから。しかし他人が僕に対して出来て当然と見做してくることが出来ないときは何かしら自分に足りないものがあり、それが出来て当然のレベルのことであり、僕は何かしら人間として必須の努力とか謙虚さが足りなかったのであろうという捉え方をして、葛藤し、苦しみながらもできるだけそれを克服することで皆さんに迷惑をかけない自分になるために、恥を忍んで自分にできる範囲でしかないけれど努力はしてきた。そうしてようやく獲得したものを活用しても少なからぬ一定数の人は決して満足することがない。満足させることができない状態をみて僕ははじめて「またこれか」と気付く。僕はそのへん、自分でもがっかりするくらい鈍感で、いつも後になって失望させられてみて、僕が自分の本当にやりたかったことに純粋でなかったことに思い至ってみたり、相手に過度な期待をかけてしまっていた己に反省するのだ。

もっと掘り下げた話をするならば、僕は相手が嘘をついていることがいつもわかっていた。しかし嘘を直接言葉で指摘できるのは、本人がそれを嘘と認識しているときだけだ。そうでなければ相手のプライドを傷つけて不毛な争いになるだけだ。嘘というものは、善悪はともあれ嘘をついている本人がそれを必要としているから存在しているのであり、その原因を奥深く探れば長い長い旅になることがほとんどの嘘のケースで当てはまる。

想像してみてほしい。もしあなたが僕のように、相手の嘘がすべてわかる能力を持っていたとする。そうなったらまずはじめに理解すること。人は嘘まみれだ。嘘のない人間は世間一般的に変人扱いだ。嘘が見抜けない人にとって嘘はショックだったり悪いことのように見えているのだろうが、嘘というものが日常でどこを見回しても存在する世界に生まれ育っていれば、やがてそれは意識する必要がなくなる。森の中で生まれ育っていたら一本一本の木を見るたびに驚いたり反応しなくなるのと同じだ。

相手に何か理不尽を押し付ける人間の中には必ず嘘がある。嘘がある人間は常に何かに飢えている。たいていの場合は、愛に飢えている。それは、愛が与えられるべき時期に何かを逃した結果である。ところがそのような方々にとって残念な現実を突きつけることになるが、愛は与えてこそ人生に充実が生まれるものであり、渇望や欲求には果てがない。

相手の嘘がわかるということ自体には、想像されているほどのメリットはない。それを活かすためには様々な経験から学ぶべき必須事項がある。嘘がわかるだけのことでは何にもならない。身の回りから嘘つきを排除すれば、結果は孤独だ。人間は自分を騙すことで獲得する確信というものもある。嘘は悪いものでも善いものでもない。そこに善悪の判断はないのだ。嘘は罪ではなく、本人が嘘を自覚したときにどういう反応をするかが重要なのだ。

いついかなる場合においても僕は他人の行動を非難しない。単純にディベートしたいだけなのだ。トピックに対して議論をすることはあるが人の善悪について語ることは人生の時間に必要ない。

ときに何時間も自分だけの時間に籠もる。それが数日間に及ぶこともあれば数週間、数ヶ月だったこともある。それを理解してくれない人とは関わることができない。それは僕が僕であるために必要なことだから。クリエイティブさを維持するために必要なことだから。

自分がなんのためにいまを生きるのか。つまり価値観。これが合わなければ共感は成り立たない。

良き理解者や、自分が思い描いている世界観を共感し、対等に語り合える相手がいつか現れることを期待しながら生きてきた。僕はいままでの人生で、完全に自由な表現をしたことがない。なぜならば自由な表現をするとコミュニケーションにならないから。だから僕はいつも自分の世界で仮説と証明を繰り返し、妄想から何かをつかみ、事象や先人の言葉から勝手に独自の方法で学び、それが正しいか間違っているかの判断も自分でせざるを得ず、ずっとずっと孤独だ。

思っていることや感じていることの1%も表現しきれない。残りの99%は語る相手がいない。どんなに仲良くなろうとも、僕の99%は表現の場を求めて放出したいエネルギーをぶつける場所をもたず、フラストレーションを抱えてきた。やがて僕はそのエネルギーを誰かと共感することを諦めた。それは僕にとって新しい正しさをもたらした。誰かに理解してもらうことを完全に諦めることで僕はすべてから解放されたのだ。こうして人は神の存在を意識するようになる。それは人の心がつくりだした美しい存在の確認であり、観察である。誰が見ていなくても神はすべて見ており、理解している。昔から「お天道様がすべて見ている」という言葉が現実的に意味を帯びてくるのだ。

多くの人が未確認の幻影に怯えながら生きている。そして頭でものを考えて判断していると思い込み、直観や感覚について捉えようとしない。そこから流れ込んでくる叡智を受け取ろうとしない。人々がチャンスと呼んでいるものは決して稀なものではなく、瞬間瞬間、無限の流れとして存在している。ただそれを受け取るのは頭ではない。だから頭が外れない人には決して巡ってこない。

自由になればなるほどに瞬間の喜びに満たされていく。孤独であることを受容して己だけの道を歩んでいると、不思議なことに頭が外れない人から心配されるのだ。そんな心配をする前に自由にしてくれたらいいのにと思う。

他人に表現できていない99%は僕の中で強大なエネルギーとして渦巻き、カオスとなってその放出先を常に探っている。僕の心に触れる者はその片鱗を感じ取り、ほとんどの場合、去っていく。

このような戦いに終わりを告げる救いと思い込んでいたいくつかの経験は、それが逆であることを示した。僕はいま生きることを喜ぶ権利を知っており、いまこの瞬間にすべてが詰まっていることも知っている。