愛が全てにおいて何よりも重要だとされる時代がもうすぐ来る。僕が言う愛とは、100%公正なもので、100%与えるものだ。それ以外を愛とは呼ばないということを、しっかりとここに書いておく。
愛は馴れ合いではない。愛は依存ではない。愛は見過ごしではない。愛に妥協はない。だからこそ、突き詰めることに人生をかける価値があると僕は思っている。
そしてここでひとつ、大切なことを宣言しておこう。
僕は現世が愛に満ちたものになることを信じているし、ただ指を加えて待っているだけではそれが現世に訪れないことも知っている。しかしひとつ明らかに述べる。たとえ現世でそれが為せなくても、結局あなたの人生はあなたのもので、僕の人生は僕のものである。人生が終わればその後には無しかないと信じている人にその信念を変えろとは言わないが、もっとよく世の中を観察し、さまざまな事実を感じ取り、学び、ときには直観に身を任せ、ときにはじっくりとその因果関係について試行してみる努力をしたらいい。そうすれば明らかなことだ。人生は一回で終わらないということが。
僕は特定の宗派に身を置いていないし、特定の主義も持たない。物事を常に赤子のような純潔さで評価するためには、他者に与えられた何かを、己が体感によって確信することもなく信じること、つまり盲信は阻害要因にしかならない。
物事の真理を突き詰めるためには、頭を外す必要がある。
結論に至ることができないのならば、悩み、考え、向き合い、時には休み、また考え、行動し、結果を見て、また考える。人間はバカだ。僕もバカだ。しかし追求することをやめたら、バカのままだ。ゴールがなくても最善に向かって走り続けることが、人生最大の喜びだ。そして結果は必ず得られる。
僕がここで主張していることが分からなくても、疑わしくても、いつか人はそれを理解する日が来る。僕は1日に何百回も、己の世界を疑う。疑いを証明することが間違いを見つける最善の方法だから。僕は自分という人間を信用したことはない。しかしそんな信用できない人間が最善で考え、行動し、感じ、行き着いた答えをまた疑うことを数え切れないほど繰り返し、今ではそれが当たり前となり、ヒントを探し続けることも呼吸をすることと同じくらい当たり前となり、それで今納得した上でこれを書いている。
人生が愛に満ちたものだったか。己に偽りのない人生だったか。それを人生の終わりの時に評価するのは自分自身ではない。それは歴史に刻まれた己であり、評価できる者がいるとすればそれは神だけだろう。生まれてから死ぬまでの全ての考えと行動を全て把握している他人はいないからだ。多くの人はその事実に甘えて妥協する。それを妥協しないことによって苦しむことから逃げるのだ。
つまり、社会が愛に満ちたものにたとえならなかったとしても、わたしたちひとりひとりの人間は、死のその瞬間に嫌でも全てが明るみに出て裁かれる。
なのでこの世界に愛あふれる社会を実現できるかどうか? という問いには意味がない。その答えによって僕がやるべきことには何ら違いは生まれないから。
この人生は一度しかない。あなたがロールプレイングゲームで好きなように振る舞えても、現世において好きなように振る舞えないのは、なぜか。
僕には答えはない。わからないから。
僕は自分のやりたくないことは決してしない。理由なき行動は断固拒否して生きてきた。これからも自然にそのままだ。
無いものを数えながら死んでいくんですか?
あるものを数え、与えていく人生をなぜこの国では頑なに拒否するのだろう?(答えは聞かなくても自分で出している。これは問いかけだ)
話に聞いただけのことで何もかも知ったつもりになって生きてそれで満足か?
そうだというのならば、そのまま生きていけばいい。ただひとつ、伝えておく。その人生のゴールには虚無しかない。
僕はカオスだ。カオスは無ではない。カオスは無とは対極の概念だ。カオスこそ我が人生だ。
カオスを恐れる人間は、自分自身の存在を恐れている。
無という概念について考えたことはあるか。無について考えることは不可能だ。なぜなら考えた時点でそれは無ではないから。これが観察者効果の一面であることが感じられるか。
無の概念はインド人によってもたらされたと言われている。無は概念であるが、人が生きていく上で無を理解する方法はただひとつ。無以外の全てを理解することだ。なぜなら我々は生命であり、無ではなく、エントロピーに逆らうことで存在を許されたエネルギーだからだ。
エネルギーの出し惜しみをしている者は、自分の有限性を規定している。有限に束縛されている限りは、無限も無も理解できない。
IUT理論が理解できる者がほとんどいないのはどうしてか。それは常識外れの枠組みだからだ。あの理論は、我々の常識の深い基盤を非常識の一部としてカオスの海に放り込み、その中から生み出される一抹の光条として我々の宇宙を定義付けるからだ。
我々の思考は浅いままにしておくこともできるし、海よりも深くブラックホールよりも深遠に導くことができる。その可能性を活用できないのは、誰のせいでもない。己自身のせいだ。
他人のせいにしないこと。これがどこまで広げられるかが、愛の深さということもできる。
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