Three

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僕は自分自身のことについて誰にもカミングアウトできていないことが幾つかある。決して後ろめたいことではないんだけど、話しても理解してもらえないことで、話しても「だからどうした」ということでもあり、話しても信じてもらえそうもないことだ。

今まで傍から見ればたいへんおかしく見えるようなことをたくさん言ってきたのは自覚している。でも自分は皆さんが知っているよりも実際にはさらにおかしな人間で、その実際と比べてみたら今の自分が受けている評価は「だいぶまとも」なのだ。

そういうことが誰にでもあることだったらいいなあと思う。でも僕はこのだいぶおかしな僕自身と、ごく常識的な社会との間のギャップにたいへん苦しめられてきて今があるから、これ以上はあまり苦しみたくないという思いもある。しかし僕がカミングアウトしていないことは僕には変更不可能な自分自身のアイデンティティの一部でもあるから、受け入れるしかないし、隠そうとしても何かおかしいということになる。

端的に言えば僕は一般の人にはない能力をいくつも持っている。その一部はシレッと書いてしまったり友人に話してしまったりしたこともあるが、実際のところそれは、かなり限定的な表現をしている。

ほんと、こんなこと書いてて「中二病かよ」って自分で思っちゃうけどね。

まあこのブログはほとんど自分のひとりごと帳みたいなものだから。

なかなか信じてもらえない事実を抱えて生きているのは、とても大変なことだ。自分が人と違うところがあるっていうのは、まずその事実を自己認識することがとても難しい。認識してもそれをなかなか受け入れられない。でも事実は揺るがない。さらにそれを孤独な悩みとして抱え込むことになる。

抑え込もうとしても抑え込むことができないばかりか、勝手に成長する。

そして少なからぬ人たちが、それを後天的に得ようとして四苦八苦していることも知っている。

なんというか、申し訳ないような、説明しにくい感情になる。

人に話すと、それが事実ではない証明をするために延々と話を聞かされることになったり、机上の空論というか反論をぶつけられたり、鼻で笑われたり、頭のおかしい人だと思われたりするだけなのだ。

でも僕は自分自身のそういうところを長年かけて受け入れてきたわけで。そのためにどれだけ苦しい思いをしてきたのかも、話すつもりはない。だって共感してもらえないし、また堂々巡りになる。

実際のところ、僕の生きるエネルギーとか、反骨心とか、忍耐力とか、前に進もうとする意欲とかの源泉って、ここらへんにあるのだと思う。

環境・境遇に依らず、人とかかわるたびに必要以上の葛藤と判断を迫られる。

しかし近年はそういう自分をうまく活かす方法がわかってきた。楽しんでしまうことにしたのだ。そうすると色々と違う世界が見えてくるのだ。


話は変わるが、みなさんは自分の中に複数の人格を意識することはあるのだろうか。

僕の中には複数人の僕がいて、いつも議論している。

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