どうやら僕は、モノに感情移入してしまうところがあるらしい。
ヒトや動物や植物だけでなく、無機質のモノにも。
そして今まで自分の力が及ばずに悔しい思いをしたことは、決して忘れない。みんなだって、そうだろうと思うんだ。
思いを踏みにじるというのは、とてもつらい経験だ。
ふと、見渡すと
僕のまわりには、再び活用される日を待っている、古い古いパソコンたちがある。
僕の原動力は、こうしたところにある。
このパソコンたちがまた、フルに働くことができるようにする良い手立てはないだろうか、と考える。
老いぼれでも、その一台一台が、僕の一時代を支えてきてくれた、相棒のようなパソコンたち。
なかには、流れ者のようにいろんな人の手に渡り、老いぼれになって僕のところに来たヤツもいる。
料理をしているときも、
なるべく無駄なく使いたいと思う。だからできるだけ、野菜は皮ごと使う。
間違って、あるいは忘れてて、食材を駄目にしてしまったときは、食材に申し訳のないことをしてしまったと思う。
穴の空いた靴下を捨てるときも、いろんなことを思う。そして靴下に「いままで、ありがとうね」と声をかけて、さようならまたどこかで会えるといいね、なんて思いを胸に、最後の洗濯できれいになった穴あき靴下を、ゴミ箱に捨てる。
捨てるというのは、僕には向いてない。
そんな僕の行動をみて人は「優しい」「優しすぎる」なんて言うのだけれど、そうではない。
本当に優しいこととは、別れの辛さを胸に懐きながらも、愛するものと共に生きることよりも、己の使命を選択することができることだと思う。
自分の身内だけが幸せになればそれでいいのか? そんな葛藤を繰り返しながら、身内だけが幸せになりそうな目先の選択をとって、身内を含めたより多くの人たちが不幸になるような選択は、取れないということだ。
自分が家族と一緒に平和に暮らせていたら、世界のどこかで戦争が起きていても幸せなのか? ということなのだ。
その戦争を放置すればやがていつか、自分の家族をも危険に陥れるかもしれない。
僕にとって原点は常に、身近にある愛する対象だ。
家族、パートナー、友人たち。
そうした身近な人たちと、身近ではない人たちの違いって何だろうか? 違いなんて、ないでしょう。知り合っているか、そうでないかの違いでしかない。
【袖すり合うも多生の縁】
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