楽しい仕事だって?

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仕事が楽しいと感じる瞬間は、どんな仕事にだってあるはずで、全くなかったら人間はそんなこと続けていられない。無理に続けたら身体か精神がやられる。究極的には死をもってその仕事から離れることになる。

「仕事が楽しい」と「楽しい仕事」、この二つの文脈において「楽しい」の定義はかなり異なる。仕事が楽しいというのはその瞬間に感じることで、その瞬間につながる苦労や努力が報われた瞬間と僕は捉える。一方で「楽しい仕事」っていうのはよくわからん。楽しい仕事かそうでない仕事か、その基準は人それぞれだし、ひとつやふたつではないと思う。

仕事というものは一生をかけて取り組んでいくものなのか、あるいは生きるために仕方なくやっていくものなのか。これも人によって価値観が違うから一般化は不可能だと思う。

僕は自分のことをソリューション・アーキテクトであると自負しているが、世の中にすでにある解決策を適用することを仕事にしている人はアーキテクトではなくインテグレーターだと思う。アーキテクトは、今までになかった解決策を世にもたらすことにこそ、社会的価値を認められる余地がある。これは僕の信念と言ってもいい。

例えば超高齢化社会。2025年問題、2040年問題、2052年問題と、既に定義された問題が世の中で共通化されている。しかしその範囲で対策をあげることは僕はしない。

そもそも高齢者の定義とは何かについて思い巡らせてみる。欧米の雇用において年齢や性別はプライバシーの一部で、履歴書には年齢も性別も書かないのが当たり前の世界に僕は長くいた。

キューブカフェにはさまざまな年齢の方が訪れる。例えば75歳という年齢を切り取ってみても、ある75歳は認知症が進行していたり歩行困難になっていたりするし、またある別の75歳は頑健な肉体を維持しており、新しいことにチャレンジする意欲も抜群で、若者に全く引けを取らない上に、平均的な若者よりも忍耐力もある。

また40歳という年齢を切り取ってみても、まるで老人のように体力も意欲も知力も低下してしまっている人もいるし、見事なまでに現役バリバリの方もいる。

年齢という評価基準で高齢者や後期高齢者を定義することを当たり前としていることに無理があると感じる。

肉体・精神・知恵。心技体のバランスがどのような状態にあるのかを数値化することはほぼ不可能である。だからこそ行政は「機会平等」の名の下に年齢という基準で物事を決めたがる。特に日本のように人口1億人を超えていて中央集権型を維持している図体のデカイ行政では、それが顕著だ。

機会平等には限界があることを学ぶにはまず、平等性と公平性の違いを認識できる必要がある。

公平性の視点に立てば、労働力人口の内訳はもっと変わってくる。

僕の母方の祖父母は商店を営んでいたが、後期高齢者になっても現役だった。父方の祖母は琴の師範だが、同じく後期高齢者でも現役だった。大正14年生まれの97歳なので流石に今は引退したようだが、頭はしっかりしているし、歩行も生活も一人でほぼなんでもこなす。

老人介護とは一体なんなのか。自分でできることを介助してもらうと、頭も体も使わなくなるので早く歳をとる。ではどれくらいまで介助が必要ないのか、その判断は現場でどうなっているか?

要介護の何級かで、メニューはほとんど決まってしまう。現場判断で「多少無理でも本人にやらせよう」はどこまで達成できているのだろう。老人は弱音を吐くかもしれない。「無理だから助けて」と。そこで助けたいのをグッと堪えて、本人の体力や問題解決能力の維持向上のためだと思ってあえて手も口も出さないという判断はどこまで可能なのか。金をもらっているから、あまりにも不介入すぎると感じられたらクレームにつながったり、老人虐待と捉える人も出てくるのではないか。そうなると施設側も下手なことはできず、転ばぬ先の杖をたくさん提供してしまうのではないか。

年齢に関係なく、使うものは鍛えられ、使わぬものは衰えていく。それが生命というものだ。命を効果的に維持するために、過剰なものや不要なものは減らしたりなくしたりするし、足りないものや無いものは増やしたり獲得したりする。

筋肉も使えば増えるし使わなければ衰える。記憶もそう。知恵を絞るような知的活動に至っては、フルで使っているときは精神的ストレスとして感じられるから、逃げたくなる人が多いのもわかる。

平和な世の中というメリットのトレードオフは、心技体をギリギリまで使って生き抜こうとする「生命力が試され、成長する機会」に乏しくなることだ。何事もバランスが肝要と思う。楽をしすぎても人はダメになるし、苦痛がありすぎても人はダメになる。

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