「誰のことも見捨てない」
「すべての人を愛する」
幼い頃の自分にとってこれらは、永遠とも思えるテーマだった。いったいそんなことがこの現世で可能なのかどうか見当もつかなかった。世界を見回せば、言葉ではそう発していても、実際には矛盾だらけにしか見えないのだ。
僕の探求対象はこのテーマのために、広げて行かざるを得なかった。これが後に、己の「好奇心」に関連づいてくるものだ。
このテーマについて考えない日はない。人生とは常に迫りくる課題との決闘。自分が折れるか、それとも課題に対する新たなる光明を見出し、そこに刃の切っ先を突き立てるか。生死を賭けたギャンブルのような状態に身を置き、内なる闘いに勝利すること。これが生きるということだ。
人の役に立つことをする。
凡庸なところに立っていては、それはできない。他の誰かに代替可能なことをやって、己の成果にするのはただのエゴなのだ。成果を潔く他者に与えることもまた、その人の役に立つことである。
果たして僕は、一般常識的な愛とか恋とかについて語る必要性もなかった。しかし自分以外の人がそれを語れる状況にあるということは、世界が平和であることを知るひとつの兆しであるから、純愛の存在を他者に見ることには、幸せしかない。
己の行動に名前をつける必要はない。それが愛に見えるのであれば愛と呼ばれればよいし、裏切りに見えるなら裏切りと呼ばれればよい。自由を与えることもすべて潔さへの試練となる。
ただひとつ、己の中心にあるものは愛である。愛には偏りがない。重力などのエネルギーと同じように、愛もまたエゴによって都合よく歪めることができないエネルギーである。
わたしがなぜ、ここでこのような説明をしているのかについては、わたしから理由を探しても答えはない。今ここで読んでいるあなたに語りかけているのはわたしだ。わたしはいまこの瞬間、あなたのためにこの文章が必要だとわかっているから書いている。
左右をキョロキョロと見渡さないで。わたしは他の誰でもない、あなたに語りかけている。
読んでくれてありがとう。
わたしは誰も見捨てたりしない。現実にそれが可能であることを既に発見している。そしてそれが可能であることを実践で証明している。途中経過をみて結論を出してしまうことは、あなたを含め誰かを傷つける結果を不必要に生む。
わたしは今、同時に無数のことが見えていて、それがすべて調和する光明に切っ先を当てている。
わたしは常にそうしてきたし、ここに書いてあることもすべてそうだったし、これからもそうだ。
コメント