「唯一無二」から「当たり前」へ

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最近のキューブカフェは、とても繁盛している。繁盛とは言っても、お金の話ではない。

人のためにやっていることであるから、人が集まるということが最大の価値だ。場の醸成に必要なことを改めてまとめてみる。

  • 差別をしない
  • 可能性を追求する
  • 自立を促す
  • 来る者は拒まず、去る者は追わず
  • 正直に語る

人の価値が集合すれば、自ずと目的も定まるし、場はアメーバのような自由度をもったままその価値を最大限に活かした強力なコミュニティになる。

お金はいらない。語弊がないように書き加えておけば、そこで生まれた価値によって継続性も発展性も約束されるわけだから、金策に溺れる必要がなくなる。

キューブカフェ型のモデルを思いつき設計したときに、覚悟しなければならないことがひとつあることに留意した。それは、完成までに過酷なまでの忍耐が必要だということだ。それを僕はいま「浄」と呼びたい。浄にはさまざまな要素がある。浄の過程を経るなかで、自分自身も様々な発見や学習を得た。自分で設計しておいて自分がよく学ぶという状況が日々発生する。

このモデルの実現においては、頭の良さだけではなく純粋な魂が試される。

たとえば「差別をしない」というテーマにおいても、思うところはたくさんある。

  • 差別をしないということは、人をまっすぐ見つめるということである。生い立ち、職業、性別、年齢、国籍、性格、外見、主義、信仰、学歴、障害、貧富、出身地、血統、躾、文化、家族構成、功罪、名誉名声、資格資質、生活様式、その他様々な個々の差異は「認める」ことではなく「当たり前」のこととして受け止めているから、わざわざ口に出すまでもない。つまり意に介さないことが差別をしないことだ。糾弾もしなければ保護もしない。
  • 攻撃と指摘の違いを感じ取ること。健全なディベートのためにまず必要なのは、個が持つ思想を「個」と「思想」に分けて議論できる環境をつくる必要があり、現代日本において議論が炎上やいじめなどの問題に発展しやすいのは「個」と「思想」を別のものとして扱う柔軟さを失ったイデオロギー主導型のコミュニティが成立しやすい環境に大きな要因がある。特定のイデオロギーを前提とする組織は脆弱であると同時に、維持継続のために差別が発生することを避けることができない。攻撃とはイデオロギーに基づいた教化や排除のバイアスの結果であり、多くの場合はヒューマニズムの権化である。指摘とはイデオロギーに対するディベートであり、もしそこに痛みが伴うのだとすれば発展のための痛みとして正面から向き合うべき優先事項である。
  • よってマイノリティに対するアファーマティブ・アクション(積極的差別是正措置)には賛同しかねる。差別是正には常に差別の存在を肯定するパラドックスを内包する。理解のない他者による支援の手は真の救済とは到底呼び難い。「受け容れる」ということは、その有り様をそのまま受け止めることに他ならず、そこから生じる衝動は己のエゴとの闘争を意識すべきであるし、個々の自由と責任、自立と受容の関係性についてよく感じ取ることができる環境に価値がある。

すべての要素を一言で表すのならば、自由。

自由は自由である故に、形式など存在しない。カオスにオーダーを加えようとするのは統合失調的であるし、精神分裂のキーになる。

キューブカフェはまさにその自由を探求する場なのだ。

互いに得をするのではなく、互いに与え合う。どこかで聞いたことのあるような台詞だが、これを真に追究する組織を僕はまだ見たことがなかった。だからこそinfo.caffeやキューブカフェに価値を覚え、その設計を実現するためにはどうしたらいいかについてずっとずっと考え、試行してきた。

人にはそれぞれ歴史がある。昨日キューブカフェに来てくれたN氏は僕の大先輩であるが、実績を語らない。その心持ちはよくわかるし、だからこそ尊敬してやまないのだ。同様にして、キューブカフェには過去の偉大な実績を語らない人が多く集うし、まだ精神的に若い層はそういった方々の態度や言葉から、何かを感じ取る。それは「かっこよさの定義」と呼んでいいのかもしれない。言葉の裏側にある、言葉にならないコミュニケーションが成立することは、キューブカフェにおいては日常茶飯事であり、これは取ってつけたノウハウやビジネスモデルだけでは実現し得ないのだ。やはり人が集まることにこそ価値があり、差別はそれを阻害するから公平性について皆で学んでいくことが効果的である。

世の中に足りないものを作ること。それが実質的な豊かさの根源だ。提供者と受益者の仕組みは長続きしない。目の前にいる相手は客ではなく、どこかに共通性をもつ仲間である。共感し、共に広げて、その果実を共にかじる。その広がりにピリオドを打たない。しかしそれが、信仰・イデオロギーに支配されない。こういうことを現実にもたらせば、必ず人類は分かり合える。

「唯一無二」から「当たり前」へ。これは人々の先頭に立つためには欠かせないものだ。囲い込んではならない。広がるのは、それに価値があるからなのだから、それを制限してしまってはならない。その先に本物の豊穣があるのだから。

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