現在の状態

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色んなことがプレッシャーになっているんだけど、プレッシャーになっていることを言おうが言うまいが状況は変わらないし、自分が頑張るしか道がないので、なにかをぐだぐだ言ってもしょうがない。ので、何も言わずにやるしかない。
それでも、自分の弱い部分が助けを求めていて、それをすべて抑えきることができれば、つらい素振りなんて少しも見せないでいられるんだけど、やっぱり悲痛な助けを求める声が、あふれてくるときがある。そうすると、それがちょっとしたタメイキだったり、タバコを吸いながら無口になってしまったり、人の話を聞いていなかったり、暗い雰囲気になったりして、ママなんかそれに気づいちゃうわけだ。すると、なんかイライラしてそうだなとか具合わるそうだなとか心では思ってたりするんだろうなということが逆にパパに見えちゃったりして、それでも何もママが言わないのはもう言っても仕方ないから言わないのかなーとか考えちゃったりする。

ここで客観的になれないのが自分の弱いところだとおもう。
客観的になろうとすればするほど、自己批判してしまう。それこそが客観的であると自分の心のどこかが叫ぶ。そいつが自分に向かって叫ぶ。お前はどこまで甘えているんだと。
僕は常にその声に追われながら生き続けている。

僕の中に住む、5人を紹介しよう。
正確には「ヒト」ではないから、「人」という数え方でいいのかどうかわからないけど。
ほんとは、名前なんて無いんだけど、ここに書いて行くからには名前があったほうが便利だから、ちょっと考えてみることにする。

まず一人目は、「核」と名付ける。
「自分」とか「本質」の意味で、素っ裸の自分。そして、常に迷っている。迷いの解決を「核」である自分自身で行うことはできない。常に、以下に名付ける他の部分と対話をしており、その意見に左右される。しかし、行動や方針の最終決断をしたり、実際に人と話をしたり、行動するのは、この「核」の部分だ。悩むのも「核」。自分自身である。
「核」は「裁判官」でもある。

二人目は、「行者(ぎょうじゃ)」とでも名付けよう。
行者は、常に自己研鑽を求める。自己研鑽は、他者への貢献という形で、恩返しのようなイメージで、戻される。完璧な「利他主義」であり、自分の命を捨ててでも他人の命を救う。常に自己批判する。上人の赦しを、甘えだと捉えている。潔癖の源はここにある。ただひたすらに、厳しい存在。

二人目は、「上人(じょうにん)」と名付ける。
上人は、常に「核」である自分自身を気遣う。祝福する。そして、赦しを与える。平穏。天使の存在によって、バランスが保たれている。行者の厳しさを、偽善だと捉えている。上人という名こそあれ、甘やかしの要素や、美しいものをえり好みしすぎる傾向もある。物欲の源はここにあると自分は考えている。表裏一体。

三人目は、「悪魔」である。
利己的、排他的、暗くじめじめしており、天の邪鬼で、悪いことをもっと悪い方向に持って行こうとする。

四人目は、「天使」である。
つい最近までこの存在を、「上人」と同一視していたので、気づかなかった。悪魔と正反対の存在。

五人目は、人格のようなものがない。「暗黒」と名付ける。ブラックホールのようなもの。パソコンのゴミ箱のようなもの。捨てたいものが捨てられて行く先。ただし、心が荒んでいるときには、捨てたくないものまでここに飲み込まれてしまう。コントロールすることはできないが、他の存在がバランスよく働いていると、猛威を抑えることができる。

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【行者が核に語ること】
自分を許すということは、他人に甘えるということだ。
そんなことが許されると思っているお前はバカだ、バカだ。
自分で自分の道を切り開くのは当たり前だ。そんなこともできないお前は木偶の坊というのだ。

【上人の行者に対する反論と核への説教】
お前は自分に対して厳しすぎる。目標を厳しく高く設けることは決して悪いことではないし、それは自己を向上させる上ではとても素晴らしいことだ。ただ、目標を高く持つことと、それを完璧にこなすということは別だ。完璧な人間などいるはずがないだろう。100パーセント、100点満点、それ以外は全部0パーセントで0点、そういう考え方を改めなければいけない。
お前はこう考えている。100パーセントでなければ意味がないと。
90パーセントしか達成できなければ、人に褒められても評価されてもだめだと。なぜならそれは、人に評価されたりするためにやっているわけではないから、当初の目標が達成されることで初めて意味のあることだから、と。
そして、お前はこう考える。90パーセントでも99パーセントでも、残りの10パーセントや1パーセントに甘えがあると。だからこそ100パーセントでない限り、それは0パーセントと同じようなものだと。
そうではない。そうではない。
90パーセントでも、30パーセントでもいいじゃないか。
大切なのはそこに行くまでのプロセスじゃないか。

【行者】
こうやって、うつ病なんて判断をしてもらえるなんて、とことんお目出度い奴だお前は。うつ病なんてものは、そんなものじゃない。
実際お前は眠れないなんて言いながら眠くなれば眠る。食欲だってあるし体重も減りはしない。ストレスと言えるほどのストレスもないくせになぜそんな弱音を吐く。弱音は血を吐いてからにしろ。血反吐を吐くくらい必死になってはじめて、認めてやろうという気にもなるってものだ。
死を恐れるな。人間はそう簡単に死にはしない。少なくともお前の今の状況で死に至るなんてことは絶対にあり得ない。耳が聞こえなくたって仕事はできる。無くして初めて、職があることのありがたみがわかるんだぞ。お前は悪運だか背後霊だか知らないがそういうものに恵まれていて、究極の絶望というものを知らないのだ。知らなければそれでもいい。知らないままでいいこともある。ただ、現在のお前が最悪の究極の絶望にいるわけではないことくらい分かるだろう。だったら、堕ちる前に努力をしろ。這い上がれ。腹が痛くても頭痛がしても、歩けないほどひどいなんてものではないだろう。這ってでも、決めたことは全うしろ。そして反省しろ。今までの過ちをすべて咀嚼しろ。逃げずに噛み砕け。受け止めろ。そうしないとお前に明日はない。なぜなら、絶望とは程遠い状態でそんな弱音を吐いているようでは、お前がこの人生で到達したいと思っているところには、到底たどりつくことができないからだ。俺は、俺のため、つまり、お前のために、こういうことを常に発信しつづける。考え続ける。考えることで潰れるなら潰れればいい。そこまでだ。

【上人】
確かにお前、つまり俺自身は、今まで最後までやり遂げるという結果を残していないかもしれない。しかし、過去は切り捨てよ。反省はその場で済ませろ。反省しながら立ち向かえるほど、未来はやさしくはない。
過去を悔いるなら、未来で同じことが起きないことについて考えなさい。
お前のしてきたことは、無駄ではない。よく冷静に見てみろ。一緒に過ごした仕事仲間。上司。後輩。部下。お前の仕事を100パーセント否定した人間がいるか?いない。それどころか、ある意味肯定以上の評価をしてもらっている。それは、努力なくしてできないことだ。努力なくして達成することも、偶然ある人もいる。でもその場合、繰り返さない。
お前は十分悩み、考えた。そして、最善の道をいつでも選んで勝ち取りたいと願ってきた。結果は、もちろん最善ではないこともあったが、十分なものだろう。振り返って、心に落とし込みなさい。落とし込んだら、もう振り返らなくて済むようになるから。

【行者】
完璧な甘え。まだわからないように見えるが、行者は悪魔では無い。悪魔は、破壊する。行者は、道を造る。光を与える。自分自身に。その光を辿った自分自身が、より大きな達成を手にする。その達成によって得た力や富や名声は、幻。信じないこと。しかし達成によって得た力を、弱者のために活かしなさい。求めるもののために尽くしなさい。所有しようとしてはいけない。一度劫火に焼かれるがいい。焼かれてこそわかる痛みというものがある。立ち上がれ。継続しろ。途中でやめたら、どんなに素晴らしいことを頭の中で考えていようと、実現することができない。実現できなければ、考えていなかったということと、何の違いがある?
こうしている間にも刻一刻と、人生の貴重な時間が過ぎ去って行く。お前に残された時間が、流砂となって落ちて、消えて行く。

【上人】
時間に対して常に焦りを感じていることは分かっている。時間の大切さ。それは間違いだとは言い切れないが、焦る必要はない。焦りは心に歪みを来す。心が歪むと、自分自身を映す心の鏡が歪む、鏡が歪むと、正確に自分自身を知ることができなくなる。それによって、錯誤した道を選んでしまうのだ。

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正直なところ、僕は死にたいと思っていた。今でもたまに思う。
しかし死こそは、単なる逃げでしかない。行者は言う。そのため、僕は死ぬことができない。プライドが高いのだ。死ぬことは何も怖いと思わない。しかし、死に至るプロセスが、痛いだろうなとか苦しいだろうなと考えると、死ぬことを躊躇してしまう。こう考えている限り、死ぬことはないのだろう。逆に言えば、その痛みを乗り越えてでも自分という存在を停止させたいと思ったときこそ、自殺してしまうときなのだろう。
あともうひとつの可能性は、死ぬときの痛みにまで頭が回らない、想像できない、そのくらいにもうダメになってしまったときだ。

うつ病患者の「治りかけ」に自殺者が多いのは、うつが酷いときには、自殺する気力すら奪われてしまっているからだ。うつが治りかけると、自殺を実行することができるほどには、行動力がつく。だから、死んでしまう。
この気持ちについては痛いほどよくわかる。

それから現世に残して行くものたち。未練があるのです。
それは家族。ママと4匹の犬たち。この存在がなかったら、きっと僕は1995年にはもう死んでいました。
だから、ママが死んだらパパはわんこの世話ができないからなんて言われると、とても悲しい。ママがパパより先に死んだら、絶望と共にありながら死ねない状態になるのだろう。わんこがいるから。死ねない。

家族ができたこと、すなわち結婚したことは、たぶん自分の力ではない。
僕に生きろと怒鳴るあのパワーが、僕を生かしてくれているわけです。
神様なのかもしれません。こういうことに、神様という名前を、先人達はつけたのかもしれない。そうであれば、僕が今まで生きてきたのは、神様のおかげである。生かされているという言葉もよくわかります。神様がいなかったら、僕は何度も、下手をすると何十回も、絶命していました。自殺、事故、もしかしたら、他殺で。

心が不安定です。
助けを求めたいのに、僕の内側からは何も聴こえてきません。
誰かに答えを求めているわけではなく、そっと背中を押してほしいだけなのかもしれない。でもそれも、甘えなのだろうか、誰にもしてもらえないことに、悲しさを感じる自分自身に、いらだちを覚える。
自分が好きだと言いたい。
自分が大事だけど、好きではないなんて、かっこわるい。どうしてこんな恥ずかしい人生で、生きて行くのだろう。これも魂の試練というやつなのでしょう。頭ではわかる。頭ではわかる。いつでもわかる。納得する。うなずく。うんうん、という。いつもそう。
でも、心でわかっているのか、俺?
本当に、バカなんだ、自分って。泣きたくなるくらいに。
こんなところに何か書き綴ったって、何も変わるわけない。でも、何かしないと、死んでしまう。何いってるんだ。俺は死なない。死ねない。

神様、僕は大きな荷物を背負っていますか。それとも、荷物が足りないのでしょうか。
もしも荷物が多すぎるのなら、荷物、捨てます。
足りないのなら、どうすればいいのかわかりません。
生きるには弱すぎる運命というやつなのでしょうか。
生まれつきの欠陥かなにかなんでしょうか。
どうして人は悩みながらも、真剣に立ち向かわずに、そのまま悩み続けるのでしょうか。どうしてベストを尽くさないで、文句ばかりたれても、生きて行ける人たちがいるのでしょうか。それとも、文句をたくさんたれている分、実はみんな、誰も見ていないところで、血のにじむような努力をしているのでしょうか。

僕のいまの状態を救うには、いくつかの可能性があると思います。
なぜなら、いくつか、心の重荷になっていることが、自分なりにわかっているつもりだからです。
ひとつめに、お金のことがあります。これは、自分でまいた種、と一言でいつも片付けてしまっています。
マンションのローンにしても保険の支払いにしても、パソコンや時計やゲームなんかを買ってこさえた借金にしても、これは何もいい訳できません。税金も、年金もそうです。それでは、これから先どうしていくのが良いのでしょうか。いまの職場で頑張って行くことでしょうか。もう34歳になりました。転職なんて、もう何度もできないと思います。それに、この業界にずっといたら、僕の性格上、きっと死にます。早くに。だからこそ、最近は「希望」じゃなくて「必要」として、このIT業界から足を洗いたい、もしくは、違う形で接したいと考えるようになったのです。
しかし、僕の行き先はどこにもまだ見えていない。つまり、ITで頑張るしかないのです。
いまの職場は、はっきり言えばプレッシャーになっています。でも、今までたくさん会社を辞めたりしてきたから、誰にもうまく説明できないのです。前職である KVHをやめたときには、人間関係でした。こうしたことを繰り返したら、誰からも信用されない人間になると思っています。だから、辞められません。約束もしました。3年は続けると。いつもいつも約束を破る人間には、なりたくないのです。そのためには、自分の思いと違うことでも、我慢しなければならないこともあると思ったのです。家族の安心のために、守る約束、そして我慢です。僕はこの我慢が達成された暁に、絶望があってほしくありません。そんなことになったら、何も信じられなくなってしまう。それが怖くて、悩んでいるというのもあるのです。でも、約束を果たした先には、きっと絶望なんてないと思うんです。こんな些細なことで恐れてはいけない。

僕は常に焦りを感じているのです。IT技術者として、もしくはコンサルタントとして、僕に残された時間は、あとわずかなのです。他の業界よりも命の短い世界なのです。若者に、技術者という立場は、明け渡さなくてはなりません。そうすると、焦ってしまうのです。それまでに、なんとか居場所を見つけなければいけないと思っていた頃もありました。それこそが、正社員になりたいという強い願望の反映でした。しかし、気づきました。大きな企業でも小さな企業でも、大樹に寄りかかっていることで、安心してはならないと。それは、リスク管理を人任せにするという、愚かな行為であるということ。
自分で自分の道を切り開いてこそ、予想外の失敗などでも自分で納得がいくわけです。
だからこそ、焦ってしまうのです。追われています。
追われない生活、肉体的にどんなにきつくても、幸せだと思います。
悲しい。

 

コメント

うずら
投稿日時: 2006-11-20 15:26  更新日時: 2006-11-20 15:26

読み返して思ったけど

やっぱり今はまだ神様なんて考えをする自分にクソクラエだ。
そういうところに話がいくと、どうしても自分の中に逃げを感じる。
人任せ、神頼み。
自分で解決する努力なくして、向上はあり得ない。

つまり、結論は、パパの努力が足りないということだ。
ただそれだけ。怠け者のパパでごめんなさい。
ちゃんと仕事するから。がんばる。

きりん
投稿日時: 2006-11-20 16:10  更新日時: 2006-11-20 16:10

なんでもかんでも人任せじゃこまるけど、自分でやりきれない、重荷になることは人任せにしてもいいじゃん。
神に頼る。
頼って気持ちが安らぐなら寄りかかっちゃえばいい。

努力が足りないわけじゃない、努力を頭でしすぎちゃってるんじゃない?
自分で「頑張った」と思うことがあるなら、そう自分を褒めてあげればいいし。

もうちょっと頭の力抜いて「気軽に生きてみる」といいんじゃないかなぁ~と。

ママはパパと違って知識のほうが足り無すぎるから、いい言葉をみつけられないけどね。w

自分で追い込み、追い詰めすぎ?
がんばろー♪と気持ちを奮い立たせるカンジと
がんばらなきゃ…と追い詰めるカンジ、パパは追い詰めるタイプだよねぇ。

うずら
投稿日時: 2006-11-21 14:45  更新日時: 2006-11-21 14:45

「がんばる」という言葉は、100%、自分を追い詰めるというか、追い込む?言葉だよ。パパにとっては。
だってね、周りの人からみて「がんばってるねー」って言われても、それが本当に「自分の信じていること」とか、「やりたいこと」とか、「やるべきだと信じていること」だったら、まったく、ぜんぜん、辛くない。それがどんなに難しいものであっても、体力的にきついものであっても。
というか、そういうのってパパの「がんばる」には当てはまらないから、「俺ぜんぜんがんばってないんだけど、がんばってるなんて評価されちゃって申し訳ないなー、というか、ラッキー?」くらいに感じちゃうのだよね。

で、いまの仕事が嫌いかとか辛いのかというと、全然そんなことないんだ。
だって、自分がガンガン成長できることがたくさんあるし、会社もパパの実力を認めてくれているところがあるから、健康に毎日仕事ができる状態だったら、いろんなことを信頼して任せてくれるようになる。
いま何が辛いって、そういうことは全然関係なく、朝、辛い。とてもつらい。会社に行きたくないとかじゃなくて、まったく誰にも会いたくない。自分も含めてすべてが邪魔。
これってまた「うつ」なのかなあと思う。
原因なんかいくら探っても現状が変わるわけじゃないんだけど、思い当たることはいくつもある。

思う存分仕事ができていないこと。
何度も何度も会社に迷惑をかけているという気持ちになっていること。
自分の力を出し切れないことが悪循環になって、本当に出せなくなってしまっている。
薬の副作用。

がんばらなきゃ、がんばらなきゃ、って思うほど、空回りして、そんな自分がむかついて仕方が無い。
自分が死んだら、誰と誰が悲しむだろうとか、
借金のことはどうなるだろうとか、考えることにしている。
そうすると、死ぬことができないから。
また、最近(一度「うつ」がなおってから)は、
「死んでしまったらあんなこともこんなことも経験できないで終わっちゃうんだ、もったいない!」っていうことを、いろいろ考えてる。
たとえば、将来借金なんてなくなって、ママつれて海外旅行にいくこととか、そんなことをひとつひとつ数えて楽しみにするようにしている。
あと、江原さんの言葉は、響きました。
この世の辛いことに、乗り越えられないものはないと。
そしてそれは、魂の試練であり、喜びであると。
これは、「神頼み」しないための、パパの最後の希望です。
そして、強力な希望です。
だってもし仮に、いまの辛い状況が、自分で求めてやってきたものだとしたら、それのために死んでしまうなんて本末転倒だよね。
自殺=負け ということの意味がよくわかるね。

一方、たとえば教育問題とかいじめの問題で自殺してしまう校長先生とか、汚職とかで会社や組織を守るために自殺しちゃう人とか、そういうのは、ほんとバカだとおもう。こういうのは論外なんだけど、うつ病で死んでしまう人っていうのは、気持ちがわかるようになってしまった。
なんていうか、病気のせいなんだろうけど、何も見えなくなってしまうんだよね。
そういうときは、誰かが道しるべを与えてあげないと、もう本当に、同じところばかりぐるぐる回ってしまって、前に進めないのです。

前に進めないどころか、その「ぐるぐる」の半径がどんどん小さくなっていって、最後に止まってしまう。
それが人生の終わりだとしたら、悲しいことです。

世の中には、修行僧みたいに、つらいことに立ち向かうことこそが、「がんばる」ことだと信じる人たちが多くいます。
パパはそういう人たちにたくさんのことを教えられて生きてきて、自分の身を削ってでも仕事に貢献して、そこで初めて評価されると信じて生きてきた。
でも、あるときから、よくママにも言っているように、つらいというのは不自然なことだと思うようになった。
そう思うようになってからか、どうもうまく自分をコントロールできるようになってきた。
それまでは、つらいことに立ち向かう自分に失敗ばかりしていたのだけど、それが変化して、楽しいことをしてお金もいただける。いいことだ、と思うようになった。
だって、仕事っていうのは、社会に何かを貢献することだよね。パパはそう思っている。
社会っていうのは、どこかの誰かだと思っている。
パパの業界では、「誰か」が見えづらいけど、たとえば床屋さんなら、直接見えるよね。

「自分の技術で、誰かが喜んでくれる。そして、それに対して払っても惜しくないと思えるだけの対価を支払ってもらう」

こう考えたとき、その「技術」というものを磨くのに、
「やりたくないけど仕事だからな」とか
「つらいけど頑張らなきゃ(追い詰め)」でやっていたら、決していいものはできないと思う。
「この仕事本当に大好きで仕方が無い」と、四六時中そのことばかり考えている人には、とうてい勝てっこない。
ましてや、「こうしたらもっと、お客さんが喜んでくれる」という想像力は、最強です。
パパの仕事が認められるのは、この業界に入ったばかりの頃は、そういう「お客さんのことを想像して、常にそこに意識を置く」という能力がまだ無かった(弱かった)ので、「どんなときでもバリバリ100%でがんばる」ことで認められるしかなかった。
実際それで認めてもらってきた。

でもあるときからそれは変わってきていて、「お客さんにとって何が良いか」ということを、考えることができるようになったからだと思う。これって書くと簡単そうなことなんだけど、どれだけの人が実際にこれをできていることか。本当に少ないです。みんな、自分のことばかり。仕事でさえも。プライベートはともかく、仕事くらい、相手のことをもっと考えようよと。

そしてそれが、
「お客さんと、自分(たち)、どちらも幸せになれる道があるはず」というポリシーにつながるのです。
お客さんだけ幸せになっても、長続きしない。
「Win-Win」(勝ち-勝ち)の関係っていう言葉があるんだけど、それは、商売はどっちも勝ち組になってこそ、本当の商売だということ。
「そんなものあるはずがないだろう!」とか、「そんな甘っちょろい考え方が社会で通用するはずがない!」なんて言う人がいるらしいですが、しかもたくさんいるらしいですが、そういう人たちこそ、社会というものについて真剣に考えたことが無い、あま~~~~い人たちです。ぬる~~~いお湯に浸かっているんです。人に言われたことを、よく考えもせずに、うのみにするんです。そういう人は。そして、あたかも自分の意見のようにして、後輩や部下に伝えて行く、脳なし人間になってしまう。

よく考えてみると、どちらかが不幸になるビジネスなんてものは、ほんとうにバカらしいことだということがわかる。

そういう、どちらも幸せになれるビジネスを実現できる人というのは、常にそういうことを意識している人だけです。
そのためには、たとえば、ある仕事ひとつにしても、「お客さんはこうしたら喜んでくれるだろうな」の一歩先まで踏み出して、さらに、「一緒に働く仲間も、こうしたら仕事がやりやすくなるだろうな」とか、「この仕事がうまくいったら、会社としてもこういうチャンスができて、それが自分も含めた社員全員にとってプラスになる。それは、社員ひとりひとりの家族にとっても幸せになることだ」と考えることができる。それこそが、プロであるとパパは思っています。そして、そこはゴールではなくて、その先がまだあると思う。

パパは神様じゃないから、もちろん上記のような気持ちを持っていても、そううまくいかないこともある。
でも、自分にハードルを設けているんです。
前の仕事は、ここまでうまく自分の思いをつぎ込むことができた。だから、次はもうちょっと前に進んで、ここまでやろうと。

そして、毎回仕事のきりがいいところで、反省をします。
その反省は、できるだけ厳しく、容赦のない考えをするように心がけています。なぜなら、パパは自分に甘いから。そう言われ続けてきたし、自分でもそう思うようになってしまった。実際そうだろうね。
だから、どんなに厳しく反省したところで、それを他人に(言わないけど)言ったりしたら、「あんた全然見えてないね。ここはどうだった?あれは?まったく反省しても意味ないよ、そんなんじゃ」って、きっと言われるんだと思っています。

たとえば、仕事一辺倒でがんばったとき、会社の誰からも賞賛され、お客さんからも感謝され、一件落着にみえたときでさえも、誰かに迷惑とか裏で支えてもらっている。
一見めだたない総務の人が、飛行機の準備だとか、不定期な勤務時間の処理だとかやってくれている。
家族は、毎晩遅くなっているにもかかわらずゴハンを用意してくれたり、出張で不在になったりして、負担をかけている。
そういうことに反省しなければいけない。
そうしなければ、人としての向上はない。
これは、波に乗っている自分だからこそ、「追い詰め」なくて済む「反省」なのです。

しかしこれが、自分の思うように仕事のできない現在のような状況になると、重くのしかかってくる。
反省することが山ほど毎日ある。

日々、お金で苦労しているのに、パパが1日休むごとに、家計を圧迫していく。これが一番つらい。

お金のことは、一番のプレッシャーになるよね。

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