仕事ができる、できない

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仕事ができないのは罪か?

世の中にはGTDをはじめ、様々な個人用のタスク管理、ワークフロー管理手法が存在する。仕事を効率的、効果的に処理するための手段であり、こうした手法を全く使わずに仕事をするということは、流れてくる仕事を五月雨式に処理することになる。それでは仕事の優先度付もままならず、非効率的である。

そもそも、仕事の効率を上げるというのは社会的責任というよりも個人の問題だと思う。仕事ができてもできなくても世界は滅びたりしないし、会社が潰れることもおそらく無い。ただし仕事ができなければ個人の評価が下がり、思うように昇進できなかったり、給料が上がらなかったり、実績を出せなかったり、下手をすると会社をクビになったりする。それだけのことだ。

もしあなたがこうしたことを重要だと考えるならば、仕事のできる人間になる必要がある。

個人の動機付けをする文句として私は「社会人としての責任」を押し付けられることが嫌いだ。
それは答えになっていない。というか、社会人としての責任って、何のことなのかさっぱり分からない。社会人は何かに対して責任を負っているのだろうか?「プロとしての責任」も同様だ。

組織で働くということは、個人の実績と評価に基づいて対価を得ることだ。会社が必要としているものを与え、それに対する見返りとしてお金をもらう。それ以上に何があるのか?

それ以上の精神論を人に押し付けることは自分の流儀ではない。自分がどこに向かっているのか、そしてその向かっている場所へ到達するために、あらゆる手段を尽くすことは、誰のためでもない、自分のためである。

 

 

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