嫌いな人はいない

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僕はいま、感動してる。

というか、毎日を感動して生きている。

生きてることが、とても幸せだ。

何かいいことあったの?と聞かれることもあるけど、そうではなくて、もともと感じられなかった究極の幸せに気がついてしまったのだ。

生きてるということに。

それに気がついてから、生きていることに幸せしか無くなってしまった。

幸せを受け入れたら、毎日、不思議なことが起きる。

幸せを倍増するようなことが常に起きるのだ。

僕が何かアクションを起こす必要もない。

幸せなイベントの方から勝手にやってきてくれるのだ。

今日はそんな幸せのひとつ、人と人の縁について書こうと思う。

最近、古い縁が復活しまくってる。

20代の頃よく遊んでくれた先輩とか。中学時代の同級生とか。高校時代の同期とか。昔の同僚とか。

その多くは、Facebookから復活する。そうじゃないケースもあるけれど。

Facebookが我々に与えてくれた価値は計り知れない。

FacebookのようなSNS、つまりインターネットを介した繋がりを助けるサービスが一般化するまでには、長い歴史があった。

日本にはmixiがあった。アメリカにはmyspaceがあった。世代的に使ったことはないが、前略プロフィールも流行った。さらに遡れば、個人サイトの掲示板CGIやIRC(インターネット・リレー・チャット)があった。もっと前には、Nifty-Serveや草の根ネットがあった。

ネットワーク回線を通じた不特定多数とのコミュニケーションは、レイトマジョリティにまで足を伸ばし、爆発した。

日本でそれをさらに助長したのが、LINEだ。先日うちの母がとうとうスマホにした。目的はLINEだ。フリック入力をあっという間にマスターして使いこなしてる。

先端技術の応用には流れがある。

コミュニケーションは時代とともにシュア団の多様化が進んでいる。

こうして新たなる出会いや再会の機会が増えたことによって、社会そのものの流れが変化しつつある。

SNSにはまだ、人と人が直接会って触れ合う素晴らしさには及んでいない。

なぜなら直接会うということは、この世界において我々人間のために用意されたコミュニケーションの究極であり、世界はそのようにデザインされているからだ。

昨日、小学校から高校まで同じ学校に通っていた幼馴染と10年以上ぶりに会った。高校時代の同期と一緒に。

人を大切にすることが素晴らしい恩恵を与えてくれることを心から実感した。

僕は人が好きなのだ。

世の中にはムカつくやつもたくさんいるけど、それは、その人がムカつくのではなくてその人がやってることが自分に悪影響話与えた結果としてムカついてるだけで、僕は決して、その人を嫌いになることはない。みんなも同じなんじゃないかな。

僕は愛すべき人々とともにこの世界を生きてる。

生まれ落ちたその時からずっとずっと、そうして生きてきた。当然、人間関係がうまくいかなくて苦しんだりもした。

どんなにお金を積んでも、いま僕が獲得した人間関係は買うことができない。

そんな人間関係を築き上げてきた自分に感謝の念がある。感謝というよりも、危うくギリギリのところで間違った道を選ばずに進んできた自分に、ハラハラしながら生きてきて、結果、ホッとしてる。

もちろん、今まで人を傷つけてきたこともたくさんある。嫌われたこともたくさんある。僕自身の未熟さから、クソ人間を演じざるを得なかったこともたくさんある。

でも僕は人と意見が合わなくて袂を分かつことがあっても、ずっとずっと信じてた。これは間違った選択ではない。止むに止まれず選ばざるを得なかった離別だと。

自分という人間を調和させて統合させるるためには、様々な経験をして、そこから得られる結果から成功、失敗というレッテルを剥がしてまっすぐに受け止め、自らの価値観や世界観を文字通り広げる必要があった。

頑固者の僕は、生命の危機に陥るまで自分を曲げられないこともあった。

この豊かな国で、経済的な理由で死ぬことはないと断言できる。日本は安全な国なのだ。ところが、人は物理的に満たされていれば死なないというわけではない。

人が死ぬ理由は常に、絶望なのだ。

希望がなくなった時、人は簡単に死ぬ。

希望の無くし方は千差万別だ。他人の不幸や苦しみは絶対に理解できないから批判すべきではない。

同様に、希望の持ち方にも様々な形がある。それも絶対に理解できないから批判すべきではない。

希望も絶望も、他人の抱えているものは絶対に理解できない。理解したような態度や思い込みは、相手を傷つけるし、傲慢な行いだ。

しかし、他人の希望や絶望が理解不能なものだからといって、無視したり関係ないふりをするのは違うと思う。

理解不能だからこそ、少しでも理解したいという気持ちをもち、理解するための試行錯誤をする。

これが、愛ゆえの行動なのだ。

愛は行動ではなく、理解したいと思うその気持ちなのだ。

人と人を引き付けあう、目に見えないエネルギーのことなのだ。

『私はあなたをもっと深く知りたい』

その想いこそが、科学でこそ証明されてないけれども、人と人を間違いなく引き付け会うエネルギーで、まさにそこに存在していることを人は目の当たりにしているはずなのです。

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