罪と調和

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わたしにとって、成功はたいして重要な問題ではない。
功を成すよりも、調和を愛することにしてから満たされている。

好奇心(curiosity)に駆られるまま、肩の力を抜いて自然に生きることがどれほど幸せなことか。
それは実際に自分が体験した、お金のある生活やエリート生活とか、そういうこととはまったく次元の違うものだ。

許容することについては、まだまだ学ぶべきことが多い。
自我を捨てるということは、とてつもなく長い旅路だと気付く。
純粋性への旅は、確実にその険しさに値する幸福をもたらしてくれる。

汚れたものなど存在しない。無知がそこにあるだけだ。
正義と対立するものは常に正義だ。
それでもなお、右の頬を叩かれたら左の頬を差し出すところまで昇華できていない自分を省みる。
欲と欲のぶつかりあいは何も生まないが、自分の欲が誰かの純粋さを傷つけてしまったときには、それが意図的なものではなかったとしても深く恥じ入る。

安定とは、もたらされるものではなく、もたらすものである。
本当に大切なことは、人を愛し、生きるものを愛し、この大地を愛し、空や太陽やすべての恵みを愛すること。
これ以上に大切なことがこの世にあるだろうか。
世の中に安定を求めるのではなく、自分が行動することで世の中に安定がもたらされるということに気付いたとき、人は自分の意思をもつ。
その安定とは、自らの巣を自らの力でつくることだ。
誰にも頼ろうとせず、ゼロから積み上げていくことだと思っている。

なぜ巣をつくるのか。
恐怖から逃げるために巣を作ってはならないと思っている。それは巣ではない。
行動は自然に、他者へ背中を見せることにつながる。
自分の行動がもたらした結果をどう受け止めるかは人それぞれの自由だ。
ただ、いまを楽しく生きていられるかどうかが、人を浄化することにつながることを理解できたとき、人はじっとしていられなくなる。
そのときにこそ、自らの過去の生きざまと思いの深さが試されるときだ。

自分を試すことを後回しにすればするほど、地面にしがみつき、羽ばたくことができなくなる。
羽ばたいたとき、そこはまだほんの序の口であるということを知る。
それを何度も何度も繰り返したとき、空の青さを目の当たりにする。

「地球が病んで/動物たちが/姿を/消しはじめる時/まさにそのとき/みんなを救うために/虹の戦士たちが/あらわれる」
――アメリカ・インディアンに古くから伝わる言い伝えより

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