Purity and bind

情報を出し惜しみする態度を見た時点で僕はその人の波動に合わせる気がなくなる。
経済という仕組みに対するチャレンジを突き詰めるには、それしかないのだ。
すべての人間が、ここ日本では経済という鎖につながれている。

僕がここに書いていることは、まとめれば値段をつけた本になることも知っている。
そのまとめる理由が思いつかない。金のために書きたくない。
ここで情報を提供していればいいじゃないか。
書店に行くたびに、なるべくして本になったものと、金のために本にしたものが完全に異なるものとして見える。

金のために作られたものは、薄っぺらく見える。
そこにはワクワクも感動もなく、ただそこにあるだけだ。

情報とはそういうものではないはずだ。僕は前人未到の地にチャレンジする。
そして必ずや、隠居や逃避という形ではなく、この世の中で僕が「間違っている」と信じている薄っぺらい価値観を裏返すための一手を下していく。

お金がすべての価値ではない、という言い方ではもう伝わらない世の中になってしまった。
いま僕がこの言葉を言い直すとすれば、

お金は呪縛であり、持たないに越したことはない。

ということだ。この内なる声に納得するまでに、様々な経験をこの世で積む必要があった。
いろんな会社で働いたり、人と出会ったり、個人事業をしてみたり。
くじけたり、笑ったり、怒ったり、死にたくなったり、生きる喜びに打ち震えたり。

お金は何も生まないのだ。
何かを生むのは、人に残された最後の楽園、「創造力」だ。

創造力は、アートによって体現される。

アートは、創造の源泉からこの世に実体化させるためのインスピレーションの成果物だ。
純粋性が汚されるのは、理解しようとする純粋性に不完全さがまとわりつくからだ。
完全性を得るために他者の教えは一切必要ない。なぜなら人は常に、純粋性の極みとしてこの世に生を受けるからだ。

このようなことがなかなか伝わらないのが、現代の実情なのだ。

木々は枯れ、動物たちは絶滅していき、人は自らの首を締める。
驕りが生み出した汚れたもの。
それを神性と呼んで崇める人たちの心は淀んでいる。
しかし淀みを捨てれば、その奥には誰にでも必ずや存在する、生まれ持った純粋性と純潔さがあるのだ。

なぜそれを追わないのか僕には理解できない。理解しなければならないのではなく、自己の純粋性を汚そうとする人たちに対して嫌気を感じるままでは楽しくないから、なぜこのようなことになっているのか理解「したい」のだ。

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